2026年02月15日 朝の礼拝「生きている者の神」

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2026年02月15日 朝の礼拝「生きている者の神」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章23節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
22:27 最後にその女も死にました。
22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 22章23節~33節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:サドカイ派の問い
 先週の箇所で、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と語られました。これは人間は「神のかたち」に造られた神のものであり、この世界すべてが神の支配する領域であることを示す問いかけでした。
 この論争に続き、本日の箇所では新たな相手、サドカイ派が登場します。彼らは「復活はない」と主張する人々でした。あここで行われた論争を通して、私たちは「復活」という信仰の根幹、そして「神の力」の真実について改めて教えられることになります。サドカイ派の人々は、当時のユダヤ社会におけるエリート階級でした。彼らはエルサレム神殿を管理し、ローマ帝国とも上手く折り合いをつけて権力と富を手にしていました。彼らが「復活はない」とした理由は二つあります。
 第一に、彼らが絶対視していた「モーセ五書」に、復活についての明快な記述がなかったこと。第二に、彼らが今この世で十分に幸福であり、成功者であったことです。虐げられた人々にとって復活は唯一の希望ですが、現状に満足している彼らにとって、死後の世界など必要ありませんでした。彼らは、目に見える現実と合理的な理屈だけで世界を測る「現実主義者」だったのです。
 彼らは主イエスに、ある極端な例え話を持ち出します。「レビラート法(兄が跡継ぎなく死んだ場合、弟がその妻を娶る制度)」に従って、七人の兄弟と次々に結婚した女性がいたとする。では、復活の時、彼女は誰の妻になるのか、と。彼らは真面目に質問しているのではありません。「もし復活があるなら、こんなおかしな矛盾が起きるではないか。だから復活などあり得ないのだ」と、復活の教えを嘲笑っているのです。
 そして、このサドカイ派の態度は、現代の私たちと無縁ではありません。私たちもまた、永遠の命や天国を「この世の生活の延長線上」にあるものとして想像してはいないでしょうか。「天国で再婚した夫とどう向き合うのか」「何歳の姿で蘇るのか」「永遠に生きるなんて退屈ではないか」。これらの不安や疑問はすべて、神の国を「今の世のルール」という小さな枠組みに押し込めて考えていることから生じるのです。

Ⅱ:聖書も神の力も知らない
 主イエスは彼らに厳しく言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(29節)。サドカイ派は、聖書の知識は持っていました。しかし、その言葉によって自らの生き方が変えられることを拒み、神の力を「人間の理解できる範囲」に閉じ込めていました。
 しかし主イエスは、復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ、と断言されます。復活とは、単なる肉体の延命でも、この世の営みの続きでもありません。それは、人間の想像を遥かに超えた、神による「新しい創造」であり、全く新しい存在へと変えられる出来事なのです。私たちが「永遠の命」を、単に時間が無限に続くことや、子孫に名が受け継がれることだと解釈するなら、その祝福の真の重さを知ることはできません。信仰とは、自分の理屈を超えて働かれる「神の全能の力」を信じることなのです。

Ⅲ:アブラハム、イサク、ヤコブの神
 主イエスは、サドカイ派が重んじるモーセ五書(出エジプト記3章)を引用して、復活の真理を解き明かされます。神が燃える柴の中からモーセに語りかけられた時、神はご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれました。アブラハムたちが死んでから数百年が経っていたにもかかわらず、神は「私は彼らの神であった(過去形)」ではなく、「私は彼らの神である(現在形)」と言われたのです。ここには驚くべき真実があります。人間の目には死んで葬られた人々も、神の目には「今も生きている存在」として覚えられているということです。
 なぜ彼らは「生きている」と言えるのか。それは、神が一度愛し、ご自分のものとされた人間を、死を超えても見捨てず、今も彼らと共にあり続けておられるからです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、神との絆は死によっても断ち切られないという宣言です。人は、神と共に歩む時にこそ、本当に「生きている」と言えます。たとえ地上で繁栄していても、神との繋がりを失っているなら、その人は霊的には死んでいるのです。逆に、肉体が朽ち果てようとも、神が「あなたはわたしのものだ」と呼んでくださるなら、その人は永遠の命に生かされているのです。

Ⅳ:現実を生き抜く力としての希望
 この「死を超えて生かす神の力」の最大の現れこそ、主イエス・キリストの十字架と復活です。神はご自分のかたちに造った人間を、罪と死の中に放置なさいませんでした。キリストが死を打ち破って甦られた事実は、私たちもまた、死を超えて神の目に「生きる者」とされることを保証しています。私たちは今、合理主義や数値化された成果に支配される社会に生きています。そこでは「復活」や「永遠」は、非科学的な妄想として片付けられがちです。しかし、私たちの常識に収まらない神の力だからこそ、それは私たちの絶望を突き破り、救い出す力となるのです。
 かつて神を知らずに自分の欲望の中に生きていた私たちが、今、キリストによって新しい命に導かれていること自体が、すでに始まっている神の奇跡です。神は今も、私たちの名を呼び「私はあなたの神だ」と言ってくださっています。この絆は、病も、老いも、そして死さえも奪い去ることはできません。私たちは、この世の常識に縛られて神の力を小さく見積もるのではなく、現実にしっかりと足をつけながらも、「生きている者の神」が約束された、想像を絶する新しい世の祝福へと目を向けて、この困難な地上での旅路を、勇気と喜びをもって歩み続けることができるのです。

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