2026年02月08日 朝の礼拝「神の家族―キリストと共に生きる教会」

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2026年02月08日 朝の礼拝「神の家族―キリストと共に生きる教会」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
使徒言行録 2章40節~47節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
2:43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
2:47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 2章40節~47節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:「家族的」な教会
 本日は午後から今年度の定期会員総会が開かれます。恵那教会は伝道開始から百年という節目を迎え、また教会の体制においても大きな転換点に立たされています。その、単なる通過点ではなく、再出発の年として祈りをもって定められた標語が、「神の家族―キリストと共に生きる教会」です。
 よく教会を表す言葉として「家族的な教会」「アットホームな教会」という表現が使われます。そこには温かさや安心感、互いの結びつきの深さという肯定的な意味が込められています。
 しかし一方で、家族という関係は距離が近いがゆえに、甘えや衝突、傷つけ合いが生じやすい危うさも併せ持っています。教会もまた例外ではありません。「家族的であること」は自動的に良いことではなく、その中身が問われるのです。

Ⅱ:成熟を目指す「成長」とは何か
 では、聖書が教える「神の家族」とはどのようなものでしょうか。エフェソの信徒への手紙2章19節には『従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。』と記されています。
 ここで言う「外国人」や「寄留者」とは、かつて神を知らず、希望を持たずに生きていた「神から遠く離れた者」を指します。しかし、キリストの十字架の血によって、私たちは神に近い者とされました。    
 また、キリストは神と人との壁を取り除いただけではなく、異なる背景や価値観を持つ者たちを、ご自身の十字架によって「キリスト者」という全く新しい存在へと造り変えられることによって、人間同士の間にあった「敵意の壁」をも打ち壊されました。教会とは、本来バラバラであるはずの私たちが、キリストにあって一つとされる場所です。この共同体を指してパウロは「神の家族」と呼ぶのです。
 更にパウロは、この「神の家族」が成長する共同体であることを強調しています。ここで語られる「教会の成長」とは、単に教会員の数や献金額が増えるといった目に見える数値のことではありません。たとえ小さな群れであっても、一人一人の信仰者がキリストを頭として仰ぎ、信仰において「成熟した大人」へと変えられていくこと。そして互いがキリストの愛で結ばれた真実の人間関係を築くこと。それこそが、聖書本来の意味での成長です。

Ⅲ:キリストという幹に繋がるチームとして
 その具体的な姿は、使徒言行録2章の初代教会の歩みに示されていますが、そこでは「皆」「一緒に」「分かち合う」といった言葉が繰り返し用いられています。聖書は、信仰を個人だけのものとして完結させることを想定していません。御言葉の恵みも、喜びも悲しみも、祈りも賛美も、それが「分かち合われる」ところに教会の命があり、存在意義があります。キリストを共に仰ぎ、共に成長していくところに、教会の家族的な結びつきの根拠があるのです。
 私たちは、趣味や性格が似ているから集まっているのではありません。同じ主に仕え、同じ目的に向かって進む「チーム」として集められているのです。
 そしてこの「チーム」が成長するためには、一人一人がキリストという「幹」にしっかりと繋がっていなければなりません。爪や髪の毛が成長するのは、体に繋がっている時だけです。切り離された枝が実を結ぶことはありません。私たちの信仰的な成熟も、個人の努力や修練によるのではなく、キリストの命を絶えず受け取ることによってのみ可能になります。
 たとえ将来、教会の形態が変わったり、人数が減ったりすることがあっても、私たちがキリストの命に生かされ、互いに恵みを分かち合う「成熟した信仰者」であり続けるなら、この教会は「主の聖なる神殿」として、本当の意味で豊かに成長し続けることができるのです。

Ⅳ:百一年目の歩みへ
 「神の家族」とは、感傷的な馴れ合いの集まりではありません。同じキリストを頭とし、成熟したキリストの体を造り上げるという共通の目的に向かって、互いに励まし合い、支え合う「チーム」です。私たちの結びつきは、人間的な好みや相性によるものではなく、キリストとの結びつきに根ざしています。
 教会の成長は、私たちの力によるのではなく、神が与えてくださるものです。私たちはキリストという幹につながる枝として、その命に生かされるときにのみ、成熟し、実を結ぶことができます。たとえ目に見える規模が小さくなったとしても、一人一人がキリストの命に生かされ、恵みを分かち合って生きるなら、教会は確かに成長しています。
 そのような「神の家族」としての喜び溢れる交わりは、自然と周囲の人々を惹きつけます。  目に見える成長は、私たちが追い求める「目的」ではなく、そのようにキリストと共に生きた「結果」として与えられるものです。
 初代教会の人々がそうであったように、私たちの活き活きとした姿を見て、聖霊は新しく救われる人々を仲間に加えてくださるでしょう。 この2026年、私たち一人一人が「キリストと共に生きる」決意を新たにし、賜物を分かち合いながら、神の家族として成熟していく。その歩みの中で、恵那教会が次の世代へと受け継がれていくことを信じて、祈りつつ共に歩んでまいりましょう。

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