2026年02月01日 朝の礼拝「あなたは誰のものか」

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2026年02月01日 朝の礼拝「あなたは誰のものか」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章15節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 22章15節~22節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:「二択」の罠
 選挙期間の最中、私たちは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という主イエスの有名な言葉に触れます。この言葉はしばしば「政教分離」の原則、つまり「政治と宗教は別物である」という文脈で語られます。しかし、聖書がここで教えようとしている真意は、単なる社会制度の解説ではありません。それは、私たちが「誰に属し、誰のために生きるのか」という、人生の根本に関わる問いなのです。
 主イエスがユダヤの宗教指導者たちの欺瞞をたとえ話で指摘された後、彼らは主を陥れるために「納税の是非」という極めて政治的な難問を突きつけました。当時のユダヤ人にとって、支配者ローマ帝国への人頭税は、屈辱と偶像崇拝の象徴でした。納税に使うデナリオン銀貨には、皇帝を「神の子」と称える肖像と銘が刻まれていたからです。
 この問いに対し、主イエスが「納めるべきだ」と答えれば、民衆から「売国奴」と見なされます。逆に「納めるべきでない」と答えれば、ローマへの反逆罪で逮捕されることになります。本来は敵対し合う「ファリサイ派」と「ヘロデ派」が、主イエスを排除するという一点において奇妙な団結を見せ、この逃げ場のない罠を仕掛けたのです。その彼らを主イエスは「偽善者(舞台役者)」と一喝されました。彼らは敬虔な信仰者の仮面を被りながら、その心は神ではなく自己保身と権力闘争に支配されていたからです。

Ⅱ.「二重生活」の欺瞞
主イエスは「税金に納めるお金を見せなさい」と言われ、デナリオン銀貨を受け取ると、こう問われました。「これは、だれの肖像と銘か」。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主は言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
 この言葉は、しばしば「政治(この世の領域)」と「神(信仰の領域)」を器用に使い分ける「二重生活」を正当化するために利用されてきました。つまり、「平日は世の中のルールで、日曜日は神のルールで」という訳です。しかし、主イエスの真意は真逆でした。デナリオン銀貨を差し出した彼らは、すでにその通貨を使って日常の利便を享受し、ローマの秩序に依存していました。それにもかかわらず、主を罠にかける時だけ「律法ではどうか」と宗教的な顔をしてみせたのです。主イエスは、そのような内面と外面の不一致、すなわち「神を生活の片隅に追いやり、現実の利益を優先する」生き方そのものを鋭く突かれたのです。

Ⅲ. 「神の肖像」が刻まれた私たち
 主イエスの答えの核心は、後半の「神のものは神に(返しなさい)」にあります。 銀貨に「皇帝の肖像」が刻まれているからそれが皇帝に属するように、私たち人間には何が刻まれているでしょうか。創世記1章27節には「神はご自分にかたどって(神の肖像をもって)人を創造された」とあります。私たちの魂には、はっきりと「メイド・イン・ゴッド」という刻印があります。つまり、私たち人間という存在そのものが、まるごと「神のもの」なのです。
  主イエスは、皇帝と神を同列に並べて領域を分けたのではありません。「この世の秩序において義務を果たすのは当然だが、忘れてはならない。あなたという存在は、皇帝のものでも、この世の権力のものでもない。あなたは神のものなのだ」と宣言されたのです。人間は、自分が神のものであることを忘れ、自分の人生を「自分のもの」にしようとします。それが罪の根源です。しかし、私たちが自分を神以外の何かの所有物にしようとする時、私たちはかえってお金、世間体、不安、人間関係といったものに縛られ、その奴隷となってしまいます。
 神は、私たちが自分勝手に生きて、その肖像を汚してしまった時でさえ、私たちを見捨てられませんでした。それどころか、独り子イエス・キリストの命という計り知れない代価を支払って、私たちをご自分の手元へと買い戻してくださいました。十字架の愛によって、神は改めて「あなたはわたしのものだ」と宣言してくださったのです。

Ⅳ:新しい生き方への派遣
 この「私は神のもの、神の愛する子どもである」という確信こそが、私たちを真に自由な存在にします。 自分が神に属していると知っているからこそ、私たちはこの世の権力や価値観を絶対視せず、過度に恐れることもありません。同時に、神が愛しておられるこの社会の一員としての責任を、誠実に果たすことができるようになります。 「神のものは神に」という縦の軸が定まって初めて、私たちは「皇帝のものは皇帝に」という横の軸、つまり現実社会での働きにおいても、正しく、自由に、隣人を愛することができるのです。
 私たちは今日、この礼拝からそれぞれの日常へと遣わされます。そこは、神の支配が及ばない「世俗の領域」ではありません。私たちが向かう職場、学校、家庭、そのすべてが神の造られた場所であり、そこで出会う一人ひとりもまた、神の肖像を刻まれた尊い存在です。私たちはもはや、自分の成功や快楽のためだけに生きる虚しい存在ではありません。キリストの十字架によって買い取られた「神のもの」として、神から託された命と賜物を、神と人を愛するために用いる新しい生き方へと招かれています。
 忘れないでください。あなたの魂には、確かに「神の肖像」が刻まれています。あなたは神に愛され、神に属する、かけがえのない「神の子ども」なのです。この確信を胸に、新しい一週間を自由に、誠実に歩んでいきましょう。

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