2026年01月25日 朝の礼拝「奪い合うのでなく、分ち合う」

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2026年01月25日 朝の礼拝「奪い合うのでなく、分ち合う」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 20章15節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:15 盗んではならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 20章15節

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Ⅰ:「盗み」の本質
 十戒の第八戒「盗んではならない」は、私たちが幼い頃、親や大人から最初に教わる「人の物をとってはいけません」という社会道徳・ルールと同じように聞こえるかもしれません。しかし、これまで見てきた「殺してはならない」「姦淫してはならない」という戒めが、単なる行為の禁止を超えて、隣人の命や性の尊厳を尊ぶ生き方を指し示していたように、この「盗んではならない」という言葉もまた、私たちが隣人とどう向き合い、神から与えられた人生をどう歩むべきかという、深い問いを投げかけています。
 現代において、他者の財産を奪う行為は、単なる金銭的損失に留まりません。例えば、特殊詐欺などで老後の資金を奪われた被害者は、そのお金を貯めるために費やした長い歳月、労力、そして将来の安心という「人生の基盤」そのものを奪われます。そこにあるのは、深い心の傷と尊厳の侵害です。
そして近年の聖書研究はこの第八戒について、さらに鋭い視点を提示しています。出エジプト記や申命記の文脈をたどると、この戒めの本来の中心的な意味は「人を盗む(誘拐)」、すなわち人間を奴隷として売買し、支配することへの禁止であったと考えられています。 イスラエルの民は、かつてエジプトで奴隷として搾取されていた民でした。その苦しみを知る彼らに対し、神は「隣人を物のように扱い、その自由と尊厳を奪ってはならない」と命じられたのです。
 この視点に立つとき、第八戒は単なる窃盗の禁止ではなく、「他者を、神にかたどられた尊厳ある存在として見ているか」を問う戒めとなります。他者の自由を否定し、自分の利益のために「利用」することは、広義の「盗み」に他なりません。

Ⅱ. 現代社会に潜む「支配と搾取」
 この戒めを現代に照らし合わせるなら、それは過去の歴史や遠い国の出来事ではありません。 かつて日本が朝鮮半島の人々を強制的に動員した歴史、あるいは現代においても深刻な問題となっている外国人技能実習生への不当な労働、非正規雇用という不安定な立場に置かれた若者たちの将来を奪う構造。これらは、形を変えた「現代の奴隷制度」と言えるのではないでしょうか。
 私たちの安くて便利な暮らしが、もし世界のどこかで劣悪な環境に置かれた人々の犠牲の上に成り立っているのだとすれば、私たちは無自覚のうちに、遠く離れた隣人の生活を「盗んで」いることになります。この第八戒は、私たちがこの社会の不公正なシステムに対してどう向き合うべきかという、社会的な責任をも突きつけているのです。

Ⅲ. 神のものを盗む者、神の恵みに生きる者
 聖書は、富を持つこと自体を悪とは言いません。しかし、新約聖書のアナニアとサッピラ(使徒言行録)の罪は、全額を捧げなかったことではなく、一部を隠しながら「全部捧げた」と神と人を欺いたことにありました。ここに、第八戒が戒めるもう一つの「盗み」が現れます。それは「神のものを盗む」という行為です。 私たちの命、才能、時間、そして手にある富。これらはすべて、自分の所有物ではなく、神から一時的に預けられた「賜物」です。私たちはその「管理者」に過ぎません。神から頂いたものを、神の御心に従って用いるのではなく、自分の欲望と満足のためだけに独占し、浪費するなら、それは真の所有者である神に対して盗みを働いていることになるのです。
 初代教会の信徒たちは、必要な人がいれば自らの財産を惜しみなく差し出しました。それは規則による強制ではなく、神の恵みに生かされている喜びからの自発的な応答でした。彼らは「自分だけが満たされていれば良い」という考えから解放されていたのです。

Ⅳ. キリストの貧しさによって富む
 私たちが、なぜ執着を捨てて「分かち合う」ことができるのでしょうか。その根拠は、主イエス・キリストの十字架の恵みにあります。 使徒パウロは記しています。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)
 主イエスは、神としての栄光を誇示することなく、私たちの救いのために、ご自身の時間も、力も、そして命そのものさえも、すべてを投げ出してくださいました。キリストは私たちから奪うどころか、ご自身を「与え尽くす」ことによって、私たちに永遠の命と神の子としての尊厳を回復してくださったのです。この圧倒的な愛に満たされている者は、もはや「他人から奪わなければ生きていけない」という飢えや不安の中に留まる必要はありません。私たちはキリストにおいて、すでに最も豊かな者とされているからです。
「盗んではならない」という戒めは、消極的な禁止命令ではありません。それは、私たちが「奪い合う世界」から抜け出し、「分かち合う神の国」の論理へと招かれていることを意味します。私たちが日々の労働で得る糧を、自分のためだけでなく、隣人のために、教会の働きのために、そして社会の小さくされた人々のために用いること。それは、私たちの日常の仕事が、ただの「苦役」から「神と人への奉仕」へと変えられる瞬間です。神から預かっているすべてのものを、奪い合うためにではなく、愛し合い、支え合うために、聖霊がその歩みを守り、導いてくださるよう、共に祈り求めたいと思います。

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