2022年10月02日 朝の礼拝「イエスのまなざしで」

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2022年10月02日 朝の礼拝「イエスのまなざしで」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
使徒言行録 3章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 3章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

1. 教会の外に広がる「現実」
 前回共に見ましたように、初代教会の歩みは、聖霊の喜びに満ちたものでした。信徒たちは毎日共に集まり、御言葉を聞き、賛美し、パンを裂き、互いのために祈り合いました。そこには神の家族としての、温かく輝かしい交わりがありました。しかし、その教会の扉を一歩外に出れば、そこには全く異なる「厳しい現実」が広がっていました。教会の仲間たちが喜びの声を上げているその時にも、外の世界には病や貧困、孤独の中で、明日への希望も見出せず必死に生きている人々が大勢いたのです。
 今日登場する「生まれつき足の不自由な男の人」は、まさにその過酷な現実を生きる人々の代表です。彼は生まれてこの方、一度も自分の足で立ったことがありません。働くこともできず、毎日誰かに「運ばれて」、エルサレム神殿の「美しの門」のそばに「置かれて」いました。この「運ばれてきた」「置かれていた」という言葉は、彼が一個の人間としてではなく、まるで「物」のように扱われていたことを暗示しています。当時の価値観では、障がいは「罪の罰」や「呪い」と見なされていました。彼は「役立たず」と蔑まれ、社会から、そして宗教的な場からも排除された、孤独な存在だったのです。

2. 「役に立つか」という価値観
この男性を苦しめていたのは、肉体の不自由さだけではありません。彼を「役に立つか、立たないか」という基準で裁く、周囲の冷ややかな眼差しです。悲しいことに、この価値観は二千年前のエルサレムだけでなく、現代の私たちの社会にも根深く存在しています。「能力があるか」「生産性があるか」「自分に利益をもたらすか」という尺度で人間の価値を計り、基準に満たない者を切り捨てていく。私たちは無意識のうちに、周囲の人々を「価値のある人」と「関わっても得にならない人」に色分けしてはいないでしょうか。この男性は、そうした冷酷な価値観の底辺で、「自分はこうして生きていくしかないのだ」と自らの人生を諦め、ただ誰かが恵んでくれるのを待ち続ける日々を送っていました。

3. イエスの眼差し
 ところが、この日、彼の前にペトロとヨハネが現れます。彼らはこれまでも何度もこの門を通っていたはずです。以前の彼らなら、他の人々と同じように、この男性を景色の一部として通り過ぎていたかもしれません。あるいは、見ていたとしても「自分たちとは無関係な存在」としてしか捉えていなかったでしょう。しかし、聖霊に満たされたこの日のペトロたちは違いました。彼らは男性の前で足を止め、彼を「じっと見つめた」のです。
 この「見つめる」という行為は、単に視界に入れることではありません。相手を自分と同じ、神に形作られた「かけがえのない一人の人間」として、その魂の深みに出会うことです。彼の抱える孤独、長年の諦め、言葉にならない悲しみ……。ペトロたちは、かつて主イエスが罪人や病める人々に向けられた、あの「愛の眼差し」をもって彼を見たのです。
 主イエスは、社会から「無価値」の烙印を押された人々の前で必ず足を止められました。徴税人ザアカイや、誰からも疎まれていた病者たちを「罪人」や「呪われた者」としてではなく、天の父が最も慈しまれている大切な子どもとして見つめられました。今、聖霊を授かった弟子たちを通して、そのイエスの眼差しが、この男性の上に注がれたのです。

4. キリストの名によって
 この男性は、何か金銭を恵んでもらえると思って彼らを見上げました。しかしペトロは言います。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
金や銀、あるいは一時的な同情は、その場をしのぐ助けにはなるかもしれません。しかし、人を絶望の淵から救い出し、本当の意味で新しく立ち上がらせることはできません。人を真に生かすのは、イエス・キリストの御名、すなわち福音の力だけです。
 ペトロが彼の手を引いて立たせると、彼の足とくるぶしはたちまち強くなり、彼は躍り上がって歩き出し、神を賛美しながら神殿に入っていきました。物のように「置かれていた」存在が、神を礼拝する一人の人間として、自分の足で立ち上がったのです。
 私たちの教会が世に遣わされている理由は、ここにあります。世の中が「あなたは何ができますか?」と有用性を問う中で、私たちは「あなたはそのままで神に愛されている存在です」と告げるために送り出されています。私たちには、人を立ち上がらせるほどの金や銀はないかもしれません。しかし、私たちには最も尊い「イエス・キリストの御名」が委ねられています。
 神の前に「役に立たない人」など、一人もいません。どれほど欠点があろうと、人付き合いが苦手であろうと、病の床にあろうと、その人は主イエスが十字架で命を捨てるほどに愛された、かけがえのない存在です。そして、それは皆さん自身も同じです。誰一人として、あなたの価値を否定し、踏みにじっていい人間はいません。あなたは、神にとって大切な「神の子」なのです。
 今も主イエスは、優しい眼差しであなたを見つめておられます。私たちが互いを、そして自分自身を、この「イエスの眼差し」で見つめることができたとき、私たちの間には、これまでとは全く違う新しい関係と、癒やしの道が開かれます。

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