2026年01月18日 朝の礼拝「婚宴の用意は整った」

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2026年01月18日 朝の礼拝「婚宴の用意は整った」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 22章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:三つのたとえと「終わりの日」への視点
 私たちはこれまで、主イエスがユダヤの宗教指導者たちに向けて語られた二つのたとえ話を読んできました。「二人の息子のたとえ」では悔い改めの重要性が説かれ、「ぶどう園と農夫のたとえ」では神の忍耐を裏切り続けたイスラエルの不信仰が問われました。そして本日読む「王子の婚宴のたとえ」は、これら三つのたとえ話の締めくくりとなるものです。
 主イエスは言われました。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。ここで語られる「天の国」とは、死後の世界だけを指すのではありません。それは神のご支配が実現している領域であり、王は父なる神、王子はキリストを指しています。また聖書において「婚礼」は、神と民との深い契約関係や、世の終わりの救いの完成を象徴する喜びのイメージです。ですから、このたとえ話がこれまでの二つと異なるのは、それが現在や過去の罪を指摘するだけでなく、世の終わりにおける「永遠の審判」という究極の未来までを射程に入れている点にあります。聖書の世界観は、一度きりの人生をどう生きたかが最後に問われるという、真剣な責任を伴うものなのです。

Ⅱ:神の招きを拒む人間の「自己中心」
 たとえ話の前半では、王が予め招待していた人々(イスラエルの民)を祝宴に呼び集める場面が描かれます。一国の王子の婚礼に招かれることは最高の栄誉であるはずですが、人々は驚くべきことにその招きを無視しました。ある者は「自分の畑」に、ある者は「自分の商売」に出かけていきました。ここで注目すべきは、原文で強調されている「自分の」という言葉です。王が「わたしの祝宴」「わたしの牛」と、神の恵みを中心とした世界へ招いているのに対し、人々は「自分のこと」「自分の幸福」を優先しました。生活を支える営みそのものが悪なのではありません。しかし、それらが神から切り離され、自分の殻の中に閉じこもる理由となる時、神の招きは「自分とは無関係なもの」へと成り下がってしまうのです。
 さらに恐ろしいのは、王の使いに乱暴し、殺してしまう人々が現れたことです。これは自分の生き方を変えようとする神の介入を憎む、人間の罪の本質を抉り出しています。主イエスはここで、預言者を拒み、神の御子を殺そうとするユダヤの不従順が、やがてエルサレムの崩壊という悲劇(紀元70年の歴史的事件)を招くことを預言的に示されました。神の招きを拒絶し続けることは、自らを裁きの中へと追い込むことに他ならないのです。

Ⅲ:無条件の招きと「礼服」
 しかし、物語は裁きで終わりません。王は祝宴を中止せず、家来たちに「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも連れて来なさい」と命じました。今や招きは、特定の民族という枠を超えて、すべての人へと広げられたのです。10節には「善人も悪人も皆集めて来た」とあります。ここには貧しい者、社会から見捨てられた者、道徳的に問題を抱えた者も含まれていたでしょう。神の国の祝宴に招かれるために、人間的な資格や功績は一切必要ありません。ただ招きに応えて一歩を踏み出すこと。そこに、罪人をも受け入れる神の圧倒的な寛大さと、深い愛があります。神の救いとは、私たちが立派だから与えられるものではなく、王である神の側からの一方的な招きによって始まるものなのです。
 ところが、たとえ話の後半には厳しく、不可解にも思える展開が待っています。祝宴の席に入ってきた王は、一人だけ「礼服」を着ていない男を見つけました。王が理由を問うても男は黙ったままでした。すると王は「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ」と命じたのです。  大通りから急に連れて来られた者に礼服を要求するのは不条理に聞こえるかもしれません。しかし、ここで言われる「礼服」とは、私たちが自前で用意する道徳的な清さのことではありません。
 使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙で「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」(3:27)と述べています。つまり、神の祝宴に参列するための「礼服」とは、イエス・キリストご自身のことなのです。私たちが神の前に立つことができるのは、自分の正しさという衣をまとっているからではありません。私たちの罪を覆い、新しい命を与えてくださるキリストという衣をまとっているからです。王が用意してくださったこの「キリストという礼服」を受け取らず、自分の裸のまま、あるいは自分の「正義」という不完全な衣のまま神の前に立とうとすること、それこそが、神の祝宴に対する最終的な不敬であり、男が「黙り込む」しかなかった理由です。神の恵みを恵みとして受け取らない姿勢は、救いの席からの脱落を意味するのです。

Ⅳ:招きに応え、キリストをまとう
 主イエスはこの話を「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」という言葉で結ばれました。救いの招きはすべての人に等しく、豊かに差し出されています。しかし、その招きにどう応えるかが問われています。私たちは「長く教会に通っているから」「人並みに正しい生活をしているから」と、根拠のない安心感に浸ってはいないでしょうか。しかし問われているのは、今この時、私たちが自分の正しさを脱ぎ捨てて、ただ神の憐れみである「キリスト」という衣を身にまとっているかどうかです。
 ルカ福音書の「放蕩息子」の物語で、帰ってきた息子に父親が「急いで一番良い服を持ってきて着せなさい」と命じたように、この礼服は神が無料で提供してくださるものです。自分を立派に見せる必要はありません。ただ「主よ、私は罪深く、自分では自分を飾ることはできません。あなたの恵みという衣を私に着せてください」と祈り、キリストに結ばれて歩むこと。それが「礼服を着る」ということです。
 今朝の礼拝もまた、神の婚宴の「前味」です。私たちは今日、何を身にまとってここに集っているでしょうか。自分の誇りでしょうか、それともキリストの恵みでしょうか。もしキリストを身にまとっているなら、私たちは真に幸いな者です。もし、まだ自分はふさわしくないと感じているなら、どうぞ安心してください。王である神は、あなたのために最高の礼服を用意して、あなたがその喜びの席に着くのを今も待っておられます。

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