1.「あなたがたはどう思うか」
主イエスが十字架への歩みを目前に控えたエルサレムでの出来事です。主の権威を問い、対決姿勢を強める祭司長や長老たちに対し、主イエスは三つのたとえ話を語られました。前回読んだ「二人の息子のたとえ」では、口先だけで従わない弟息子に、自分たちこそ正統な指導者だと自負する宗教指導者たちの姿を重ねられました。
主はたとえ話を「あなたがたはどう思うか」という問いから始められ、最後にも「どちらが父親の望み通りにしたか」と問いかけられました。祭司長たちは正解を答えましたが、その言葉が自分たちに向けられた「悔い改めへの招き」であることには気づきませんでした。
聖書の御言葉を聞くということは、単に教訓を学ぶことではありません。あるいは、自分以外の「誰か」への言葉として聞き流すことでもありません。主イエスの問いかけを、今、この礼拝の場で、他ならぬ「この私」への語りかけとして、魂の奥底で受け止める。そこから本当の信仰の歩みが始まります。
2. 神と人間の「主客転倒」
続けて語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」において、主人は農夫たちのために垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて環境を整え、園を貸し与えました。これは神がイスラエルにいかに豊かな恵みを備えられたかを象徴しています。私たちの「人生」もまた、神が整えてくださったぶどう園です。命も、健康も、家族も、すべては神からの賜物です。しかし、収穫の時が来ると、農夫たちは主人が遣わした僕(預言者たち)を袋叩きにし、殺しました。ついには、主人が「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と遣わした独り子さえも、「これは跡取りだ。殺して、相続財産を我々のものにしよう」と企み、園の外に放り出して殺してしまったのです。
ここに罪の本質があります。罪とは、本来「神のもの」であるはずの場所から神を締め出し、「自分こそが主人である」と主張することです。「私の人生は私のものだ」と豪語し、人生の王座に神ではなく自分を据える「主客転倒」。私たちは、主人の息子を殺した農夫たちの残酷さを笑うことはできません。それは神を無視して生きようとする、私たち自身の姿そのものだからです。
3. 捨てられた石が「隅の親石」となった
主イエスはこのたとえの結びに、詩編の言葉を引用されました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。建築の専門家が「形がいびつだ」「使い道がない」と判断して放り出した石を、神はあえて拾い上げ、建物全体を支える最も重要な「要石(隅の親石)」に据えられたというのです。この「捨てられた石」こそ、十字架につけられたイエス・キリストです。当時の指導者たちは、自分たちこそが神の国の建築家であると自負し、主イエスを不適格としてエルサレムの外へ放り出しました。しかし、神はその「殺された息子」を復活させることで、新しい神の民、すなわち教会の基礎とされました。
これこそが福音の驚くべき逆説です。人間なら復讐を考える場面で、神は「神の子殺し」という最悪の罪を裁きで終わらせず、その殺された息子を、罪を赦すための「平和の礎」とされたのです。人間の理解を超えた神の愛の御業が、ここにあります。このキリストという石は、信じない者には自らの慢心を打ち砕く裁きの岩となりますが、信じる者にとっては、決して揺らぐことのない確かな命の土台となるのです。
4. キリストによって愛の実を結ぶ
「神の国はあなたたちから取り上げられ、ふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」。
この言葉は歴史的にユダヤ人から異邦人への救いの転換と解釈され、悲劇的な差別を生む土壌にもなりました。しかし、私たちはこれを特定の民族への言葉としてではなく、自分自身への警告として聞かねばなりません。かつて私たちは、神を人生から締め出そうとした「悪い農夫」であり、キリストを無視して生きた者でした。しかし神は、そのような私たちをなおも救うために、キリストを「隅の親石」として示してくださいました。
キリストを信じ、その体なる教会の一部とされた今、私たちはもはや「役に立たない石」として捨てられることはありません。神は、ご自分の独り子の命を犠牲にしてまで、私たちとの和解を望んでおられるのです。
キリストの上に人生を据えるとは、「自分の人生は自分のもの」という生き方を捨て、すべてが神からの恵みであることを認めることです。そして、その恵みに応えて、愛の実を結ぶ歩みへと導かれていくことです。すべてが神の恵みであることを認め、自分のためだけに人生を独占する生き方を捨てるとき、そこには自分自身の努力では決して作り出せない「愛の実」——永遠の命、喜び、平安——という豊かな収穫が約束されているのです。