2026年01月04日 朝の礼拝「時が過ぎる前に悔い改めよう」

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2026年01月04日 朝の礼拝「時が過ぎる前に悔い改めよう」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章28節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章28節~32節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:二人の息子
今朝の御言葉は、主イエスがエルサレムに入城し、十字架への歩みが大詰めを迎える中で語られたたとえ話です。直前には、祭司長や長老たちとの間で「権威」を巡る論争がありました。宗教指導者たちは主イエスの権威を問い詰めましたが、主イエスから洗礼者ヨハネの権威について逆質問されると、民衆を恐れて「わからない」と逃げ腰の答えを返しました。
 主は、そんな彼らを見捨てられたわけではありません。今日から続く三つのたとえ話は、神を最もよく知っているはずの人々に向けられた、最後通牒とも言える「警告」であり、同時に「招き」です。ここには主の激しい「怒り」と深い「嘆き」が記されています。私たちは裁きや警告の言葉を敬遠しがちですが、主の怒りは感情の爆発ではありません。滅びに向かおうとする者に対する、神の必死の呼びかけなのです。この厳しい言葉の奥底に流れる、主の真実な愛に心を向けていきましょう。
 主イエスが語られたのは、二人の息子の物語です。ある父親が、兄息子に「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と命じました。兄は「いやです」と真っ向から拒絶します。次に父親は弟息子に同じことを命じると、弟は「承知しました」と模範的な返答をしました。ところが、結果は逆でした。快く返事をした弟は結局行かず、拒絶したはずの兄が、後になって「考え直し」て、ぶどう園へ出かけていったのです。

Ⅱ:逆転する救いの順序
 主イエスはこの話を「あなたたちはどう思うか」という問いかけから始められました。信仰とは、単に神から正解を教えてもらうことではありません。主からの「あなたはどう生きるのか」という問いに対し、自らの存在をかけて答えていくところから始まります。  この「ぶどう園」は「神の国」の象徴であり、父親の命令は「神の国への招き」です。主はここで、単に「口先だけでなく行いが大切だ」という道徳を説いているのではありません。もっと深い、救いの本質を語っておられるのです。
 主イエスは、このたとえの配役を次のように明かされました。「兄」は、当時罪人と蔑まれていた徴税人や娼婦たちです。そして「弟」は、聖書の専門家である祭司長や長老たちです。  宗教指導者たちにとって、これは耐え難い侮辱でした。彼らは律法を厳格に守り、誰よりも大きな声で神に「承知しました」と答えてきた自負があったからです。対して徴税人たちは、神に背を向け「いやです」という拒絶の人生を歩んできた人々でした。
 しかし主は断言されます。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る」。  その根拠は、洗礼者ヨハネが示した「義の道」に対する反応の差にありました。自分を罪人と自覚していた者たちは、ヨハネの言葉を聞いて悔い改めました。しかし、自分は正しいと自負していた指導者たちは、ヨハネの呼びかけを自分たちには無関係なこととして聞き流し、最後まで「考え直す」ことをしなかったのです。  神の国に入れるかどうかの境界線は、道徳的な清さではなく、「悔い改め」があるかどうかにかかっているのです。

Ⅲ:「後で考え直す」という希望
 このたとえ話の鍵となる言葉は、「後で考え直す(メタレオマイ)」です。  実は、この物語には「本来あるべき理想の姿」が登場しません。つまり、父親の言葉に即座に従い、一度も迷わずに働きに行った「完璧な息子」は存在しないのです。なぜなら、思いと言葉と行いのすべてにおいて、最初から最後まで神に従い通せる人間など、この世に一人もいないからです。
 完全に従順であった方は、イエス・キリストお一人だけです。私たち人間に残された唯一にして最善の選択肢は、自らの不従順を認め、「後で考え直す」こと。すなわち「悔い改め」て神のもとへ立ち帰ることだけです。  しかし、自分の非を認め、神の憐れみを請うことは、人間にとって最も難しいことでもあります。自分の正しさに固執し、滅びへ向かう人々に対し、神はエゼキエル書を通して「お前たちは立ち帰って、生きよ」と必死に叫んでおられます。主イエスの厳しい言葉は、崖っぷちに向かって走っていく愛する者へ向けられた、命がけの「止まれ!」という叫びなのです。
 主が言われた「あなたがたより先に」という言葉には、まだ希望が残されています。彼らにも「後で考え直す」余地があるからです。今、目の前にいる救い主イエスを受け入れ、考え直しなさい――主は今も、私たちを神の国へと招き寄せておられます。

Ⅳ:今日、主の招きに応える
 残念ながら、当時の指導者たちは主の言葉を聞いても「考え直す」ことをせず、自らの正しさを守るために主を十字架にかけて殺してしまいました。しかし、神の愛はそこで終わりませんでした。主は復活し、ご自分を殺した者たちのためにさえ、罪の赦しと悔い改めの道を拓いてくださったのです。
 私たちは今、どこに立っているでしょうか。口先では「信じています」と言いながら、自分の都合を優先する弟息子でしょうか。あるいは、過去の過ちゆえに諦めている兄息子でしょうか。  私たちは生きている限り、いつからでも「後で考え直す」ことができます。今はまだ御言葉が分からなくても、聖霊の助けによって、もう一度一歩を踏み出すことができます。
 主は問いかけておられます。「あなたはどう思うか」。  自らの正しさという重荷を下ろし、兄息子のように「考え直して」、主のぶどう園へ出かけようではありませんか。神が本当に喜ばれるのは、私たちの完全さではなく、自分の弱さを認めて神のもとに立ち帰る、その悔い改めの姿なのです。

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