Ⅰ.失敗に直面したときの問い
私たちは誰しも、人生の中で大きな失敗を経験します。語り手も会社員時代、広告の料金表示を誤るという重大なミスを犯し、取り返しのつかない状況に陥りました。そのとき心に浮かんだのは、「どうしたらよいのか」という切実な問いでした。ごまかそうとする思いもよぎりますが、それは決して解決にはなりません。結局、上司に報告し判断を仰ぐしかありませんでした。
この経験は、使徒言行録における人々の姿と重なります。彼らもまた、自らの過ちに気づいたとき、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけました。この問いは、単なる対処法ではなく、「どうすれば救われるのか」「どうすれば本当に幸せに生きられるのか」という、人間の根源的な問いなのです。
Ⅱ.心を刺し貫く神の言葉
ペテロの説教を聞いた人々は、「心を刺し貫かれた」と記されています。それは単に感動したということではなく、罪の自覚によって深く打ち砕かれた状態を表しています。しかし、その力はペテロ自身の言葉にあったのではありません。神の言葉と、それを働かせる聖霊の力によるものです。
今日においても同じです。説教者の言葉そのものに人を変える力があるのではなく、聖書の御言葉と聖霊の働きこそが、人の心に迫り、生き方を変えます。人々は、神が遣わされた救い主イエス・キリストを自らの手で十字架にかけてしまったという事実に気づき、自分たちの罪の重大さを初めて知りました。そのとき彼らは、取り返しのつかない過ちを悟り、深い衝撃の中で「どうしたらよいのか」と問うたのです。
Ⅲ.悔い改めと信仰という道
この問いに対して、ペテロは「悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と答えました。ここで示されているのは、「自分で解決せよ」という道ではありません。
聖書のいう悔い改めとは、単に悪い行いをやめることではなく、「神に背を向けた生き方」から「神に向かう生き方」への方向転換です。そしてイエス・キリストを自分の救い主として受け入れることが、その中心にあります。この救いには人間の努力や条件は求められていません。ただキリストを信じることによって、どんな罪も赦されると約束されています。さらに、信じる者には聖霊が与えられ、神に従う新しい歩みへと導かれます。これは、人が自分の力で自分を変える道ではなく、神によって新しくされる道なのです。
Ⅳ.神の招きに応える新しい歩み
この救いの約束は、個人にとどまらず、家族やすべての人に開かれています。ただし、その根底には神の招きがあります。誰が招かれているかを人が判断することはできません。だからこそ、他人を排除することも、自分自身を失格とすることも誤りです。救いはただ神の恵みによるのです。
「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いへの最終的な答えは明確です。それは、神の招きに応えてイエス・キリストを信じることです。そして洗礼を受けた者は、教会において御言葉を聞き、交わりを持ち、祈りつつ歩む中で、新しい人生へと導かれていきます。
こうして私たちは、自分の力ではなく、神の恵みによって罪赦され、新しく生かされる者とされるのです。