2025年12月28日 朝の礼拝「愛と赦しに生きる」

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2025年12月28日 朝の礼拝「愛と赦しに生きる」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 20章14節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:14 姦淫してはならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 20章14節

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1. 第七戒と「性」の尊厳
 2025年最後の主の日、私たちは十戒の第七戒「姦淫してはならない」という御言葉を授かりました。一年の締めくくりとしては少々堅苦しく、あるいは自分には直接関係のない事柄だと感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、この戒めは私たちが人間として、神の民として、いかに互いを尊び、真実な愛の関係を築いていくかという、人生の根幹に関わる大切な教えです。
 現代社会において、この第七戒ほど軽んじられている戒めはないかもしれません。「不倫」や「浮気」は、あくまで当事者間のプライベートな問題、あるいは「民事」のトラブルに過ぎないという風潮があります。しかし、聖書が語る「姦淫」の本質とは、単なる肉体関係の是非を問う法律論ではありません。それは、神が人間関係の土台として備えられた「夫婦」という特別な絆を、人間のエゴや欲望によって引き裂くことへの警告です。
 聖書は決して人間の「性」や「欲求」そのものを悪とはしません。むしろ、それは神が人間に与えられた祝福であり、喜びの賜物です。しかし、その祝福が神の定められた秩序の外で、相手を自分の欲望を満たすための「道具」や「対象」として扱う時、それは相手の尊厳を深く傷つける「魂の殺人」へと変貌してしまいます。自国第一主義やSNSでの誹謗中傷が溢れる現代、他者を「自分の満足のために利用する対象」と見なす罪の根源は、この第七戒が禁じる高慢な心に通じているのです。

2. 一途な愛
 十戒の後半(第五戒〜第十戒)は、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という精神を具体的な人間関係に適用したものです。その中で第七戒が教えるのは、最も身近な隣人、すなわち配偶者との誠実な関わり方です。創世記の始め、神が人間に与えられた最初の関係は「親子」ではなく「夫婦」でした。神は「人が独りでいるのは良くない」と言われ、互いに助け合い、一体となるための交わりとして結婚を定められました。
 この夫婦という関係は、神と私たち人間との「契約」を象徴するものです。十戒全体の土台である第一戒「あなたはわたしのほかに、何者をも神としてはならない」は、神の私たちに対する「一途な愛」を宣言しています。神はご自分の民を裏切ることなく、どんな時も一途に愛し続けてくださるお方です。第七戒は、この神の真実な愛を、人間同士の関係においても映し出すようにと命じているのです。
 私たちは、他者を愛したいと願いながらも、つい自己中心的な罪に流され、最も身近な家族やパートナーさえ傷つけてしまいます。その原因は、私たちが神の一途な愛から目をそらし、神を拒み続けていることにあります。神との愛の関係が壊れているからこそ、私たちは人間関係においても真実を保てなくなるのです。この戒めに向き合うことは、私たちが「自分の欲望」を神とするのではなく、私たちを一途に愛してくださる「真の神」に立ち返ることの大切さを教えています。

3. 罪の女と赦し
 今日の新約聖書、ヨハネによる福音書8章には、この第七戒に違反して現場で捕らえられた女性が登場します。律法学者たちは彼女を公衆の面前に引き出し、主イエスを罠にかけるための「道具」として利用しました。彼らは「姦淫を犯した女を石で打ち殺せ」という律法の文言を守ることに必死で、目の前の女性の人格や尊厳を完全に無視していました。
 しかし、主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。この言葉は、単に「みんな罪人だから許し合おう」という妥協の勧めではありません。主は、彼女の罪を「死に値する重い罪」であると認めつつ、同時に、彼女を裁こうとする人々もまた、心の内に同じような罪を抱えた死刑囚であることを突きつけられたのです。
 人々が去った後、この世で唯一、罪を裁く資格を持つお方である主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。この無罪宣告は、単に罪を見逃したわけではありません。主イエスがこの後、彼女が受けるべきはずの「石打ちの刑」以上の苦しみ、すなわち十字架の死を、彼女の身代わりに引き受けられるからこそ可能になった救いの宣言です。主はご自分の命を削って、私たちの罪の負債をすべて支払ってくださいました。この主の「一途な愛」こそが、罪にまみれた私たちを新しく立ち上がらせるのです。

4. 新しい生き方へ
 主イエスは女性を赦した後、「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われました。これは厳しい禁止命令ではなく、主の愛に触れた者が、もはや罪の支配に怯えることなく、神に喜ばれる「自由」を生きることへの励ましです。私たち自身の意志や努力だけでは、この第七戒が求める誠実さを貫くことは困難です。しかし、キリストの愛に生かされ、私たちの内に住まわれる聖霊の助けをいただくとき、私たちは自分を変えることができます。
 自分の自由を、誰かを傷つけるために使うのではなく、隣人を大切にし、尊ぶために用いること。それが、キリストによって贖われた者の新しい生き方です。2025年を振り返る時、私たちは家族や友人に不誠実であったり、誰かの尊厳を軽んじてしまったりした、多くの後悔を抱えているかもしれません。しかし主は、その私たちを今日、ありのままに受け入れ、「わたしはあなたを愛している、あなたのために十字架にかかった」と語りかけてくださいます。

 来る2026年、私たちはこのキリストの大きな愛に包まれて歩み始めましょう。立派な人間としてではなく、主の赦しなしには生きられない者として、互いに憐れみ深く、仕え合う群れとなりましょう。自分が正義の石を持って誰かを裁くのではなく、主が私にしてくださったように、隣人の尊厳を慈しみ、守り合う。その誠実な歩みの中にこそ、本当の幸福と平安が宿ります。主の豊かな恵みが、新しい一年も皆様の上に注がれ続けますように。

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