1. 突きつけられる「私たちの罪」
ペテロは、集まったユダヤ人たちに向かって、非常に厳しい言葉を突きつけました。「神から遣わされたメシアであるイエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったのだ」という宣告です。この言葉は、二千年前の人々だけでなく、今この聖書を読んでいる私たち一人ひとりに対しても語られています。「他の誰でもない、あなたの罪がイエス様を十字架にかけたのだ」と、聖書は私たちの罪を容赦なく暴き出すのです。
聖書を読み進めると、人間の弱さや醜さがこれでもかというほど描かれています。神様から選ばれ、多大な恵みを受けながらも、すぐに背を向けて離れていく人間の姿。それに対する神の怒りと罰。正直に聖書を読めば読むほど、「お前はダメだ」と責められているような気持ちになり、読むのが辛くなることもあるかもしれません。もし聖書が、ただ人間の絶望的な現実を突きつけるだけで終わる書物だとしたら、それは私たちにとって何の慰めにも、希望にもならないでしょう。
2. 絶望を反転させる「しかし、神は」
しかし、ペテロの説教は罪の告発では終わりませんでした。彼は続けてこう語ります。
「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」(24節)。
ここにある「しかし、神は」という言葉こそが、聖書のメッセージの核心です。「私たちは罪深く、弱く、迷いやすい。私たちの人生には辛いことが満ちている。しかし、神は、その私たちを愛し、救おうとされている」。この接続詞こそが、罪に汚れ、死の影が漂う私たちの世界を180度変える力を持っています。
「死んだ人が生き返るはずがない」というのは、現代の私たちにとっても、当時の弟子たちにとっても揺るぎない常識でした。事実、最初に復活の知らせを聞いた弟子たちでさえ、それを「たわ言」のように感じて信じられなかったと聖書は記しています。ですから、私たちが復活を「ありえない」と感じることは、決して不思議なことではありません。けれども、ペテロは断言します。「イエス様が死に支配されたままでいることなど、ありえないのだ」と。神様の御業によって、人間の常識や「死」という絶対的な限界が打ち破られたのです。
3. 復活の主に出会った者の変化
ペテロは、詩編(ダビデの言葉)を引用しながら、復活のイエス様に出会ったことが自分にどのような変化をもたらしたかを証言しています。
まず第一に、「動揺しない心」です。ペテロは「わたしはいつも目の前に主を見ていた」と言います。かつてのペテロは、誰よりも威勢の良いことを言いながら、いざ危機が迫ると恐ろしさに震え、三度も「あんな人は知らない」と主を裏切った、極めて動揺しやすい人物でした。しかし、復活の主に出会った今の彼は違います。「目に見えない主が、いつも私の右にいて支えてくださる。だから私はもう決して動揺しない」と告白するのです。
第二に、「心からの楽しみと喜び」です。「わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる」とある通り、後悔と涙に沈んでいたペテロの心に、神を賛美する新しい歌が溢れ出しました。自分の力で頑張り、失敗して自分を責める生き方から、主の恵みに生かされる喜びへと変えられたのです。
第三に、「希望のうちに生きる体」です。私たちは年齢と共に衰え、病を得、やがて肉体の死を迎えます。それは避けられない現実です。しかしペテロは、肉体が朽ちていくとしても、私は希望を失わないと言います。なぜなら、神がイエス様を死の中に放置されなかったように、キリストを信じる私たちをも、死の中に置き去りにはされないと知っているからです。
4. 結び:日々の歩みの中での更新
これらの変化は、一度信じれば魔法のように一瞬で完成するものではありません。私たちは、毎週の礼拝の中で、あるいは日々の苦難の中で、繰り返し「しかし、神は」という御言葉を経験していくのです。何かあるとすぐに不安になり、落ち込んでしまう私たちが、礼拝で御言葉を聞き、復活の主にお会いするたびに、少しずつ変えられていきます。自分一人で背負い込むのではなく、いつも右にいてくださる主を仰ぎ見、「しかし、神は私を見捨てない」という約束に寄りかかって歩む者へと、今、作り変えられている最中なのです。
たとえ体が衰えても、将来に不安があっても、私たちは希望を抱き続けることができます。なぜなら、死を打ち破られた主が、今も私たちの目の前におられるからです。そして「しかし、神は」という今日の御言葉を、私たちの人生にも実現してくだるのですから。