2025年12月14日 朝の礼拝「恵みの権威の下で」

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2025年12月14日 朝の礼拝「恵みの権威の下で」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章23節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章23節~28節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:主イエスの「権威」への問い
 マタイ福音書を読み進めてきますと、主イエスの宣教の歩みの中で、常に人々を驚かせ、あるいは反発を招いてきたのが、その「権威」であったことがわかります。「山上の説教」を聞いた群衆は、主が律法学者のようにではなく「権威ある者」として教えられたことに驚愕しました。また、中風の病人を癒された際にも、人々は人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美しました。しかし、この主の権威に対して、執拗に疑義を投げかけ、挑戦してきたのが当時の宗教指導者たちでした。彼らにとって、主イエスの権威を認めることは、自分たちが築き上げてきた宗教的地位や、民衆への支配力を失うことを意味していたからです。今日の箇所でも、エルサレムの神殿という彼らの「本拠地」において、この権威を巡る真っ向からの対立が描かれています。
 主イエスが神殿で教えておられた時、祭司長や長老たちが近寄ってきてこう問いました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。  彼らが言う「このようなこと」とは、主が神殿から商売人を追い出された「宮清め」の出来事や、神殿で病人を癒し、民に教えを説いていたことを指しているのでしょう。  当時の社会において、神殿で教えることは正式な教育と任命を受けた者だけに許された特権でした。ナザレの大工に過ぎない主イエスが、自分たちの許可なく神殿で振る舞うことは、彼らのテリトリーを侵す許しがたい越権行為に映ったのです。

Ⅱ:主イエスの答えと祭司たちの戸惑い
 この挑戦に対し、主イエスは正面から答える代わりに、一つの問いを投げ返されました。
「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。
洗礼者ヨハネもまた、既存の宗教組織の外側で活動し、神の裁きと救いを説いた人物でした。主イエスは、ヨハネの活動を「神(天)から出たもの」と認めるのか、それとも単なる「人間の仕業」と見なすのかと迫られたのです。もし「天からのものだ」と言えば、ではなぜヨハネを信じなかったのかと責められ、同時にヨハネが救い主だと証言した主イエスをも認めざるを得なくなります。一方で「人からのものだ」と言えば、ヨハネを預言者と慕う民衆の怒りを買い、自分たちの支持基盤が揺らぎます。結局、彼らは「分からない(知らない)」と答えました。これは知的な無知ではなく、真実を知りながらも「答えたくない」という意志的な拒絶です。彼らは神の真理よりも、自分たちの保身とメンツを選んだのです。そこで主イエスも「わたしも言わない」と告げられ、論争は決裂しました。

Ⅲ:悔い改めの呼び掛け
 主イエスのこの問いは、単に相手を論破するための「意地の悪い質問」ではありません。これは、祭司長たちに与えられた最後の「悔い改めのチャンス」でもありました。もし彼らが、自らのプライドを捨てて「ヨハネは天からの権威によるものだった」と認めることができたなら、彼らはそのヨハネが指し示した主イエスを救い主として受け入れ、新しく生まれ変わることができたはずだからです。しかし彼らは、自分の心の王座を明け渡すことを拒みました。主の権威を認めれば、自分が「主」ではなくなってしまうからです。
 私たちは、聖書を読むことを「自分の疑問に対する答えをもらうこと」だと考えがちです。しかし、真の信仰とは、聖書から「あなたにとってイエスは何者か、その権威を天からのものと認めるか」と問いかけられ、それにどう答えるかを真剣に考えることから始まります。これは、これから信じようとする方々だけの問題ではありません。すでにキリスト者とされた私たちの中にも、主の権威を及ばせたくない「聖域(なわばり)」が残ってはいないでしょうか。仕事、人間関係、あるいは自分のこだわりやプライド……。「ここだけは自分でコントロールしたい」と主を閉め出す姿は、あの祭司長たちの姿と重なるのです。

Ⅳ:愛と恵みの権威の下に
 祭司長たちは、最後まで主の権威を拒み、ついには主を十字架につけました。人間は、自分が自分の王座に居座るために、神の独り子を殺してしまうほどの罪深さを持っています。しかし、主イエスの権威の真髄は、その十字架において現されました。主はご自分の権威を、敵を滅ぼすためではなく、私たちの罪の重荷を代わりに背負うために使われました。死に打ち勝って復活された主は、最後に弟子たちにこう告げられます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。……わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
 主イエスの権威とは、私たちを裁き、縛り付けるためのものではありません。私たちを罪から解放し、神の子として新しく生かし、どんな時も共におられるという「愛と恵みの権威」なのです。このお方の権威に従うとき、私たちは「自分の満足」を求める虚しい歩みから解放され、「神に喜ばれる」という真の自由と喜びへと移されます。
 このアドベントの季節、主は私たち一人ひとりに問いかけておられます。「あなたは、わたしの権威をどこからのものと告白するのか」。  来週のクリスマス礼拝において、私たちは心を一つにして答えたいと思います。「主よ、あなたこそ天から来られた私の救い主、私の人生の真の主権者です」と。その告白の中にこそ、私たちが世から受けることのできない、真の平安が宿るのです。

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