Ⅰ:イエスと実のないいちじくの木
前回の神殿の宮清めというエピソードに続いて語らているのが、「いちじくの木」を巡るエピソードです。べタニアで夜を明かされた主イエスは、夜が明けると再びエルサレムへ向かわれました。その途中で空腹を覚えられた主イエスは、道端に生えていた一本のいちじくの木に近づかれましたが、その木は葉っぱがおい茂っているだけで、実は一つも実っていませんでした。
そこで主イエスは、そのいちじくの木に対して「今から後いつまでも、お前には実がならないように」という呪いの言葉を掛けられたのです。するとたちまち木が枯れてしまいました。
この主イエスの行動は、小さな子どもが思い通りにいかないことに腹を立てて、周りに当たり散らすような印象を私たちに与えますが、もちろんそうではありません。それは「信仰の実を結ばない者は、やがて神の裁きによって滅ぼされる」という裁きの警告を、視覚的に語るためになされた「預言的な行為」であったと理解することが出来ます。
Ⅱ:神殿で奉げらえる空しい礼拝
主イエスがエルサレムを訪れたこの当時、エルサレム神殿は人々が驚くような立派で荘厳な神殿となっていました。しかし、神殿の中で主イエスが目にしたのは、神を礼拝することよりも商売に夢中になっている人々、異邦人を礼拝から締め出す人々の姿でした。そして捧げられている礼拝は、ただ自分たちの願いが叶えらえて、自分たちが満足するためだけの人間中心の虚しい礼拝でした。
そのように外側の建物は立派だけれども、神に対する献身も信仰も悔い改めもない有様を、主イエスは「実のないいちじくの木」に重ね合わせておられるのです。そしてそのような虚しい礼拝を止めて真の信仰に立ち帰らなければ、やがて厳しい神の裁きが降るという警告をしておられるのです。
Ⅲ:信じて祈るなら
では、主イエスの弟子たちはどうだったのでしょうか。弟子たちもまた、主イエスの行われた行為の意味が理解できなかったようです。むしろ彼らの目を引いたのは、言葉一つで目の前のいちじくの木をたちまち枯らせてしまった奇跡の方でした。
主イエスはここで「もし信仰を持って疑わないなら、あなたがたも私が行ったのと同じようなことが出来る。いや、もっと大きな業をさえ行うことができる。」と約束しておられるのです。
そして最後に「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と述べて、信仰の具体的な現れとしての「祈り」の力について語っておられます。しかしこの言葉は「欲しいものを祈れば、何でも願い通りに手に入れることができる」ということを言っているのではありません。
キリストはここで、私たちが神と人に対する愛に基づいて、愛のための祈りを奉げるなら、その祈りを神は必ず聞き届けてくださると言われるのです。
Ⅳ:神と人とのために祈り続けたイエス
私たちは、その愛の祈りの見本を主イエスご自身の祈りに見出すことが出来ます。主イエスがゲッセマネの園で夜通しの祈りを奉げられた時、その祈りは「わたしの願いではなく、神のみ心が行われますように」という祈りでした。また弟子のペトロのために「信仰がなくならないように」と祈られました。そして、生涯においてただの一度も罪を犯されなかったために罪の赦しを祈る必要がなかった主イエスは、あの最後の十字架の死の場面において「父よ、彼らをお赦しください」という私たち罪人の赦しのための祈りを祈られたのです。
主イエスこそ、自分の利益や楽しみのためではなく、ただ父なる神のみ心が行われることを、そして私たち罪人の赦しを求め、そののために祈り続けてくださった御方です。その主イエスの祈りは確かに聞き届けられ、神はキリストの十字架の故に私たちの罪をすべてお赦しになられたのです。
そして、主イエスは私たちにも「あなたがたが自分の罪を悔い改めて赦しを願う祈り、そして愛をもって神のために、隣人のために奉げる祈りを、神は必ず聞き届けてくださる。信仰によっ
主イエスは、私たちが不安と恐れの中で生きるのではなく、決して枯れることのない喜びと希望の中を歩むことを望んでおられます。そしてそのような信仰の生涯を与えると約束してくださっているのです。そのキリストの約束を信じて、私たちはこれからもたゆまずに悔い改めと愛の祈りを捧げ続け、神に対する真実の礼拝を捧げ続けようではありませんか。