1. 教会が語り続ける「罪」という言葉の意味
教会は、世間一般とは少し異なる空気が流れる場所です。その最たるものが「罪」という言葉の扱いでしょう。私たちの日常生活において、「罪」や「罪人」という言葉が飛び交う場所は、裁判所や警察署を除けば、この教会という場所以外にはほとんどありません。初めて教会を訪れた方が、礼拝の中で「私たちは罪人です」と当然のように告白されるのを聞いて驚くのも無理はありません。では、聖書が、そして教会が語り続けているこの「罪」とは、一体何を指しているのでしょうか。
私たちは「自分の罪」を問われるとき、往々にして過去の過ちや恥ずべき行動、後悔している出来事を思い浮かべます。確かに、それらも私たちの罪の一部には違いありません。しかし、聖書が暴き出そうとしている「罪」の本質は、単なる道徳的な失敗や法律への違反を超えたところにあります。私たちが「罪人」であると言うとき、それは単に過去の過ちをリストアップすることではないのです。私たちは、使徒言行録に記された最初の伝道説教の中に、人間の罪の最も深奥にある真実を見ることになります。
2. ペテロの激しい訴え ―― 「あなたがたは知れ」
ペンテコステの日、聖霊に満たされたペテロは、エルサレムに集まっていた群衆に向かって説教を始めました。この「初代教会の最初の説教」は、決して甘く優しい響きを持ったものではありませんでした。日本語の聖書では「知っていただきたいことがあります」「耳を傾けてください」と丁寧な表現で訳されていますが、ギリシャ語の原文は力強い「命令形」で書かれています。ペテロは「あなたがたは知れ」「私の言葉を聞け」と、厳しい口調で迫ったのです。
この説教において、ペテロは「互いに愛し合いましょう」といった道徳的な教訓を一切語りませんでした。彼が突きつけたのは、ただ一つの事実、すなわち「イエス・キリストの十字架と復活」です。ペテロは群衆に向かって、「神があらかじめ定められた計画に従って遣わされたイエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったのだ」と告発しました。神が救い主(メシア)として遣わされた方を、人間が拒絶し、抹殺した。この厳然たる事実こそが、ペテロが「何としても知らなければならない」と命じた福音の核心であり、人間の罪の正体であったのです。
3. 私たちの真の罪 ―― 神の愛を無視し、通り過ぎること
ユダヤ人にとっての罪とは、神の律法に違反することでした。しかしペテロは、彼らが気づいていなかった、より重大で深刻な罪を露わにしました。それは、神の御子を十字架にかけたという罪です。これは、当時その場にいた人々だけに向けられた言葉ではありません。エルサレムの外から来た人々や、直接処刑に関わっていない人々に対しても、ペテロは「あなたがたが殺した」と語ります。なぜなら、イエス様が十字架にかかられたのは、時代を超えた「私たちすべての罪」の身代わりとなるためだったからです。
私たちの最も大きく、深刻な罪とは、盗みや悪口といった個別の悪行以前に、「私たちのために死んでくださったイエス様の十字架の前を、無関心に素通りすること」にあります。自分を罵り、唾をかける者たちのために「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださったお方の愛に対し、「自分には関係ない」「あれは酔っ払いのたわ言だ」と言って背を向けること。この「神の愛に対する拒絶」こそが、聖書が語る罪の根本的な姿なのです。十字架は、私たちの罪の深さを測る物差しであると同時に、私たちの愛の欠如を映し出す鏡でもあります。
4. 十字架の前での立ち止まり ―― 新しい命への道
ペテロの説教は、人々を絶望させるために語られたのではありません。自らの罪を「はっきりと知る」ことは、新しい命へと繋がる唯一の門だからです。もし私たちが、今日この十字架の前に立ち止まり、そこで語られているイエス様の声に耳を傾けるなら、私たちの人生は決定的な変化を迎えます。もはや、イエス様と私たちは無関係な存在ではありません。自分の罪の身代わりとして死なれたお方を見つめ、その愛を受け入れるとき、そこからイエス様との新しい関係が始まり、罪の赦しと新しい命へと至る道が開かれるのです。
私たちは、神の十字架を知らず、その前を通り過ぎる者でありました。しかし、主はそのような私たちをも見捨てず、立ち止まるようにと招いておられます。罪を自覚することは苦しいことですが、その苦しみは救い主の腕の中に飛び込むための準備です。「このイエスを、あなたがたが十字架につけた。しかし、神はこのイエスを主とされた」という宣言を自分への言葉として受け取るとき、私たちは真の意味で「罪人の集まり」としての教会の一員となり、神の驚くべき恩寵の中を歩み始めることができるのです。