Ⅰ:繰り返される聖霊降臨
私たちは今日、使徒言行録2章の「ペンテコステ(聖霊降臨)」の場面を読みました。ペンテコステは、主イエスが繰り返し約束されていた「助け主、聖霊」が弟子たちの上に降り、教会が誕生した記念すべき日です。
しかし、聖霊の働きはこの特別な日の一回限りで終わったわけではありません。使徒言行録を読み進めると、弟子たちが祈り(4章)、あるいは御言葉を語る(10章)たびに、その場に聖霊が降り、人々を力づけていったことが記されています。
つまり、聖霊の降臨とは「過去の歴史的事件」ではなく、今、私たちがこうして礼拝に集まり、心を合わせて祈り、御言葉を聴くたびに起こる「現在の出来事」なのです。
Ⅱ:音と舌、そして言葉
聖書は、ペンテコステの日に起こった異変を二つの感覚で捉えています。まず「激しい風が吹いてくるような音」が家中に響き、次に「炎のような舌」が一人一人の上に留まりました。
ここで注目すべきは、聖霊の働きが「音」や「舌」という、極めて「言葉」や「語ること」に密接に関係した現象として現れたことです。聖霊に満たされた弟子たちに真っ先に起こった変化、それは「彼らが語る言葉が変わった」ということでした。
ある人は、キリスト教の信仰を「伝染病」のようなものだと表現しました。信仰は、人から人へと、主に「言葉」という経路を通じて感染し、広がっていくからです。聖霊を受けるとき、私たちの行動や価値観も変わりますが、最も劇的かつ本質的な変化は、私たちの口から出る「言葉」に現れるのです。
Ⅲ:罪による言葉の歪み
なぜ「言葉」の変化が重要なのでしょうか。それは、人類の歴史が「言葉の堕落」の歴史でもあるからです。
最初の人間アダムは、罪を犯す前、妻エバを見て「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と、相手を最大限に肯定し、慈しむ言葉を語りました。しかし、神の命令に背き、罪を犯した直後の彼はどうなったでしょうか。神に問われたアダムは、「あなたが私と一緒にしたこの女が、私に食べさせたのです」と、責任を転嫁し、かつて愛した者を指差して非難しました。
このアダムの姿は、私たち自身の鏡でもあります。私たちの口からは、しばしば人を責める言葉、自分を正当化する言い訳、あるいは神や世の中を呪う言葉が出てきます。直接口に出さずとも、心の中で不平不満や自己否定の言葉を呟いていることも少なくありません。
私たちは自分の「舌」をコントロールしようと努めますが、それは容易なことではありません。なぜなら、言葉は心から溢れ出るものだからです。心が罪によって歪んでいれば、そこから生まれる言葉もまた、歪んだものにならざるを得ないのです。
Ⅳ:聖霊による言葉の回復:わたしの言葉としての福音
しかし、聖霊はこの歪んだ「言葉」を新しく作り替えられます。ペンテコステの朝、弟子たちの語る言葉を聞いた人々は、「どうして自分たちの生まれ故郷の言葉で聞こえるのか」と驚きました。
弟子たちが語っていたのは、単なる外国語ではありません。それは、聞き手にとって最も親しい、心の奥底に届く「わたしの言葉」として響いたのです。そしてその言葉の内容は、他者を裁くことでも自己を誇ることでもなく、「神の偉大な業」を賛美することでした。
聖霊は、私たちの内に新しい「舌」を与えてくださいます。それは、人を傷つけ、自分を貶める言葉を捨て、神を褒め称える言葉へと変える働きです。人を赦し、愛によって包み込み、傷ついた心を癒す言葉。私たちは聖霊によって、自分自身の罪の言葉から解放され、神の恵みを語る者へと変えられるのです。
この「言葉の刷新」は、特別な指導者だけに与えられる特権ではありません。主イエスを信じ、聖霊を待ち望むすべての人に約束されています。
それはいつ起こるのでしょうか。それは、今この礼拝においてです。私たちが御言葉を聞き、共に祈る今この瞬間、聖霊の風は吹き、私たちの汚れた舌を清めてくださいます。
今日、ここから新しい言葉を携えて歩み出しましょう。あなたの語る言葉が、周りの人々に「わたしの言葉」として届き、神の愛を伝える恵みの通路となりますように。私たちの言葉が、絶望ではなく希望を、憎しみではなく愛を語るものへと、今、作り替えられていることを信じましょう。