2025年11月30日 朝の礼拝「来たれ、祈りの家へ」

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2025年11月30日 朝の礼拝「来たれ、祈りの家へ」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章12節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
21:17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:神殿でのイエスの怒り
今日からアドベント(待降節)が始まります。主イエスのご降誕を待ち望むこの期間に、私たちはマタイ福音書の、いわゆる「宮清め」の記事に耳を傾けます。
 ロバの子に乗ってエルサレムに入場された主イエスが、最初になされたことが、12節以下に記されています。主イエスが神殿の境内に来られると、そこには物を売り買いする商人と買い物客、そして両替人の姿がありました。すると主イエスは、彼らを神殿から追い出して、両替人の使っていた台や、承認が座る腰掛を倒してしまわれたのです。このイエスの振る舞いは、私たちが思い描く主イエスのイメージとは随分とかけ離れていますが、主イエスはなぜこの時、それ程に激しい態度をとられたのでしょうか。
 その理由について、13節で主イエスご自身が『『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」』と述べています。ここで主イエスが引用しておられるのはイザヤ書56章の御言葉です。預言者イザヤはここで神の神殿を「すべての民の祈りの家」と呼んでいます。ところが、その本来「祈りの家」であるべき神殿が「強盗の巣」になっている、これが主イエスの怒りの理由でした。

Ⅱ:祈りの家と強盗の巣
 ではそもそも、神に祈りを奉げ、礼拝するための場所であるはずの神殿において、物の売り買いや両替が行われていたのは何故だったのでしょうか。彼らは、神殿に来た人たちが規定通りに犠牲の動物や献金を奉げて、礼拝をしやすくするために、便宜上設けられていた商売人、両替人たちでした。もちろん、彼らはそこで利益や手数料を上乗せして商売としてそのことをやっていたでしょうが、当時の事情を考えれば。必ずしも彼らの行為を「悪いこと」と決めつけることは出来ないかも知れません。
 しかし主イエスは、彼ら神殿で売り買いをしていた人々を「強盗」と呼んで厳しく非難されたのです。「強盗の巣」という言葉は、旧約聖書エレミヤ書7章に出てくる言葉です。そこで神は、神殿の外で罪にまみれ、異教の神々を拝む生活をしていながら、神殿で規定通りの犠牲を奉げることで「自分は救われた」と満足している人々に対して『この神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか』と厳しく問い掛けておられます。そしてそれと同じ言葉を主イエスは彼らに対して投げ掛けているのです。
 この出来事が起こったのは「異邦人の庭」と呼ばれる場所で、ユダヤ人以外の外国人はこの場所までしか立ち入ることが許されませんでした。つまり、神殿に入ることが出来ない異邦人たちはこの場所で礼拝を奉げるしかありませんでした。ところが、その異邦人の礼拝する場所には、大勢の両替人や商人たちがいて、そこには動物の泣き声や売り買いする人々の声が響き渡っていていたのです。その有様をご覧になった主イエスは、あなたがたは自分たちが礼拝を奉げやすくするために、また商売をするために異邦人の礼拝と祈りの場所を売り買いの場にしてしまっているではないか、と言って非難しておられるのです。

Ⅲ:真の礼拝者
 今日の私たちにおいて、この神殿にあたるものは何かと言えば、それは教会に他なりません。
 私たちは、神の御言葉を聞き、神に祈り、賛美し、献金や奉仕を奉げるために、毎週教会に集まってくるのです。けれども、礼拝が終わって一歩外へ出ると、神とか信仰とかいうことは全く関係なくなって、世の人と同じように、この世の事だけを考えて生きている、そういうことが起こり得るのではないでしょうか。あるいは反対に、そういう世の価値観が教会の中に入り込んでくるということが起こるのではないかと思うのです。使徒言行録にも、教会で行われる愛餐会の食事の配分を巡って、教会員の間に不満と対立が生じたという出来事が記されています。そこで使徒たちは「神の言葉に仕える事よりも、食事のことを心配すべきではない」と言って、教会にとって何が中心的な働きなのかを再確認しています。何が教会の中心なのか。私たちは何のためにこの場所に来て、共に礼拝を奉げているのか、その根本的な意味が見失われてしまう時、教会は形だけ整っていても「祈りの家」ではなく、「強盗の巣」になってしまう、とイエスは言われます。
 では、真実の礼拝とは何でしょうか。14節以下にヒントがあります。
 主イエスは商人たちを追い出した後、「目の見えない人や足の不自由な人たち」を神殿において癒されました。更に15、16節では、子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と口々に叫んで、主イエスを讃美しています。彼らのように神殿から遠ざけられて、神を礼拝するこが許されなかった者たちが、キリストが来られたことによって、神を讃美し、神に祈り、神を褒め称えることが出来るようになったのです。そして主イエスは、祭司長や律法学者たちではなく、彼らこそが真実の礼拝を奉げている礼拝者なのだと教えているのです。

Ⅳ:キリストにある祈りの家
 ユダヤ人にとって最も大切な場所であった神殿に入り、彼らの空しい礼拝を打ち壊すこと、それが、主イエスがエルサレムにおいて最初になさったことです。そして、主イエスは同じように、まず私たち自身に対して「あなたはどうか」と問いかけておられるのです。
 ―今、あなたがたが奉げられている礼拝は、真の礼拝となっているか。教会の本来の目的を忘れて、些細なことで兄弟姉妹が争ったり、互いに非難し合ったりはしてはいないか。日曜日だけが信仰者として生きている時間になってはいないか。―
 そう問われるなら、私たちは正直に、真に不十分な礼拝しか捧げることの出来ない者であることを認めて主の前に恥じ入ることしか出来ません。そしてそのように、自らの弱さを認める時に初めて、私たちも幼子のようになって「主よ、罪深い私を憐れんでください」と叫び求めることが出来るのです。そして、その私たちの叫びに答えて、キリストが私たちの内に来てくださる時に、たとえどんなに小さな場所であろうと、どんなに人数が少なかろうと、どんな問題を抱えていようとも、そこは真実の礼拝が奉げられる「祈りの家」となるのです。

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