2025年11月23日 朝の礼拝「命の生まれる場所」

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2025年11月23日 朝の礼拝「命の生まれる場所」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 20章13

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20:13 殺してはならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 20章13

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Ⅰ:第六戒「殺してはならない」について
 前回の第五戒では、人間関係の基礎となる「親子の関係」が取り上げられていました。続く第六戒「殺してはならない」は「人間の命」に関する戒めという意味で、やはり私たちの人間関係の土台となる戒めと言う事が出来ます。そして、恐らく多くの方が「十戒の中でこれだけは守れる」と考えるのも、この第六戒なのではないかと思います。
 ところが、そういう私たちの第六戒の理解について、真っ向から異を唱えたのが、他ならぬイエス・キリストでした。山上の説教の中で主イエスは、第六戒が問題にしているのは「殺人」という犯罪行為だけでなく、その「殺人」を生み出す「怒り・憎しみ・妬み」それ自体を罪として問うているのだとお示しになられたのです。そういう理解に立つなら、誰も「第六戒なら守ることが出来る」とは言えません。私たちは日々、第六戒に背いているということになります。
 その主イエスの示された理解を心に留めた上で、今朝はあえて第六戒が文字通りに禁じている「命を奪う行為」について考えてみたいと思うのです。

Ⅱ:命を巡る問題を見つめて
 「人を殺してはならない」という掟は、人間社会に広く浸透している不文律です。ですからこの戒めを読んでも「当たり前」と思うだけで、それ以上に深く考えることはないかも知れません。
 しかし、「命」を巡る問題はそれ程単純ではありません。
 ちょうど今、神学者のボンフェッファーを題材にした映画が上映されています。彼はナチスへの抵抗運動に参加して、最後にはヒトラーの暗殺計画にも関わったために、ナチスによって処刑されました。彼の決断は、今日の「殺してはならない」という戒めに明らかに抵触しています。では、この時の彼のこの決断は間違っていたのでしょうか。それとも正しかったのでしょうか。
その問いに答えるのは決して簡単ではありません。そういう命にまつわる複雑な問題は、他にも無数にあります。終末期医療、尊厳死と安楽死、戦争など・・・。第六戒は、二者択一の単純な問いではなく、そういう複雑な命を巡る問いを私たちに投げ掛けているのです。
 ではそもそも、一体なぜ私たちは人を殺してはならないのでしょうか。この問いについて、世の名だたる哲学者や道徳家、あるいは教育者たちが、様々な答えを考えてきましたが、それらはどれも誰もが納得できる決定的な理由とは言えません。
 では、聖書はこの問いに何と答えているのでしょうか。創世記9章6節は、人を殺してはならない理由について「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」と答えています。
 命は神だけが生み出し、与えることが出来るものであり、命は私たちではなく、神の所有物なのです。他人であれ自分であれ、命を奪うことは、神の所有権を侵害する行為です。更に聖書は、あらゆる被造物の中で、人間だけが「神にかたどって」造られた存在であると教えています。人の命を奪うことは、その大切な人格を破壊することです。だから聖書は「人は人を殺してはならない」と教えるのです。

Ⅲ:「殺さない」から「愛する」ことへ ~カインとキリスト~
 神との関係において考えない限り、人は「なぜ人を殺してはならないか」という問いに対する本当の答えを見つけることは出来ません。事実、私たちが生きている時代は、人の命が軽んじられ、尊厳がないがしろにされている出来事があちこちで起きています。殺人だけでなく、戦争や貧困、差別やハラスメント、いじめ、ネットによる誹謗中傷、暴力。
 それらは、私たちの心に巣食う「妬み、憎しみ、怒り、復讐心」が制御できないくらいに膨れ上がった時に起こる「心の殺人」「魂の殺人」なのです。
 そのような人間の罪の感情は、人類史上最初の殺人事件(カインとアベル)を引き起こし、やがて主イエスに対する妬みと憎しみを燃やして、最後にはイエスを十字架に架けてしまった律法学者やファリサイ派、祭司長たちがへと受け継がれていきます。人間のねたみ、憎しみ、怒りは、放っておけば神の御子を十字架につけて殺してしまうほど際限がなくなるのです。そしてそういう罪深さを、カインの末裔である人間は今も持っているのです。
 そして主イエスは、そういう私たちの罪の性質を滅ぼし、私たちに代わって罪を償う為に十字架に架かられました。私たちこそ、自分の身代わりに神の御子を十字架に架けて殺した張本人なのです。そしてその主イエスの十字架によって私たちは、怒りと憎しみに支配される「カインの末裔」ではなく、愛と赦しに生きる神の子どもとされているのです。
 旧約の時代においては、「神のかたちに作られた」ことが、人が人を殺してはならない根拠でしたが、今やこのキリストの十字架の愛こそが、私たちが「人を殺してはならない」根拠なのです。

Ⅳ:命が軽んじられる時代だから
 たとえ時代や社会がどのように移り変わろうと、命が軽視される社会は、決して人が生きている価値や喜びを感じたり、幸福に生きることが出来る社会とはなり得ません。人の命や尊厳が守られる社会は、人間の尊厳の源をキリストの十字架に示された神の愛に置くことによって実現するのです。
 神の愛を知り、その神の愛に生かされているからこそ、私たちは、他者と自分自身の尊厳を認めて、大切にすることが出来のです。人の命が軽んじられている時代にあって、教会は、人がキリストと出会い、新しい命を受けて、育まれる場所となって、この世界に神の愛を実現していくのです。

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