2025年11月16日 朝の礼拝「救い主が来られる!」

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2025年11月16日 朝の礼拝「救い主が来られる!」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 21章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 21章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ 「エルサレム入場──始まる最後の一週間」
主イエスはエリコで二人の盲人を癒された後、ついに目的地エルサレムの目前まで来られました。これが教会暦で「棕櫚の日曜日」と呼ばれる出来事、イエスがしゅろの葉の道を通って都に入られた日です。ここから金曜日の十字架、そして次の日曜日の復活へと続く、救いの歴史における最も重要な一週間が始まります。
イエスはオリーブ山沿いのベトファゲで立ち止まり、弟子たちにロバの親子を連れて来るよう命じられました。「主が御入用なのです」と言えば必ず貸してくれる、とも言われました。この言葉には、王としての権威をもってエルサレムに入られるという意味が込められています。
イエスがロバに乗られたのは、長旅で疲れたからではなく、明確な意図がありました。それは旧約預言の成就、そしてご自身がどのような王であるのかを示すためでした。

Ⅱ 「預言の成就──柔和な王として来られる」
 堂々たる戦車でも軍馬でもなく、小さなロバの子に乗るイエスの姿は、きっとエルサレムの人々にとって奇妙に映ったことでしょう。
 マタイ福音書はその、イエスがロバに乗って入城された理由を「預言者を通して言われたことが実現するため」と説明します。その預言とは、ゼカリヤ書9章9節の言葉──「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、ろばの子に乗って」──です。
マタイはこの預言を引用する際、一部を省き、あえて「栄光ある王」のイメージを弱め、「柔和」という語に強調点を置きました。旧約と新約双方でこの「柔和」は、ただ優しいという以上に、「貧しい、へりくだった、何も持たない者」という意味を持っています。
イエス・キリストご自身がその柔和そのものでした。神の子でありながら、人となるとき栄光を捨て、貧しい夫婦のもとに馬小屋で生まれ、病む者・貧しい者と共に歩まれました。そして最後には、自らの命を十字架に差し出し、人々の重荷と罪を背負って死に至る「低さ」の道を選ばれました。ロバに乗ってエルサレムへ向かう姿は、ここから始まる受難の道の象徴であり、イエスが力ではなくへりくだりをもって王となられるお方であることを明らかにします。

Ⅲ 「期待外れの王──人々の誤解と失望」
 弟子たちが連れて来たロバに乗ると、イエスに従ってきた群衆は上着や木の枝を道に敷き、王を迎える者として「ダビデの子にホサナ」と叫びました。彼らはイエスこそ王国再建をもたらす「ダビデの再来」だと信じ、救いの到来を期待していました。エルサレムの人々もこの騒ぎを見て「この方は一体誰なのか」とざわつきました。しかし群衆はすぐに、イエスは彼らの期待するような政治的解放者ではないと気づきます。そこで彼らの期待はやがて失望に変わり、「十字架につけろ」という叫びへと向かっていくのです。彼らは「自分たちを助けてくれる王」を求めただけで、「罪から救うために苦しむ王」を求めてはいなかったのです。
 彼らだけではありません。これまでイエスに助けを求めた人々もそのほとんどが、皆自分にとっての利益や願い事を求めていました。人間の願いは最後には自己中心に行きつき、願いがかなえば神を讃え、かなわなければ失望し、怒り、離れていきます。しかしイエスだけが、「私の願いではなく御心がなりますように」と祈り、その御心のために十字架を受け入れられました。人々が求めていなくても、罪からの救いのために命を捨てられたのです。これこそが神が遣わしてくださった真の王の姿であり、人間の願いを超えた「本物の救い」です。

Ⅳ 「真の救い主を迎えるために」
 群衆の姿は、今日の私たちの姿でもあります。私たちもまた、自分の願いや期待を神に押しつけ、その通りにならないと失望したり怒ったりします。しかし、私たちの願い通りに動く神に、一体どれほどの意味があるでしょうか。
 本当の救いとは、私たちの自己中心の願いをそのまま叶えることではなく、むしろそれを打ち砕き、その背後にある罪を解放することです。イエス・キリストは、私たちの思いや願いをはるかに超えた神の救いをもたらすために、小さなロバに乗ってエルサレムに来られました。今日もイエスは、裁きではなく憐れみをもって私たちの心に入り、罪を砕き、従う心へと造り変えてくださいます。この真の救い主を心にお迎えし、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように」と喜びと信頼をもって歌い続けようではありませんか。

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