Ⅰ:エルサレムへ向かうイエスと二人の盲人
マタイ福音書20章のこの出来事は、主イエスがエリコを通って、いよいよエルサレムへ向かわれる途上で起こりました。エリコはエルサレムの東およそ30キロの町で、そこからはもう十字架の道が見えていました。主はこれから、ご自身の命をささげるために都へ向かわれようとしていたのです。そんな中で、二人の盲人が道端に座り、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください!」と叫びました。彼らは主イエスの足音を聞き取り、わずかな希望を胸に声を上げたのです。けれども、群衆は彼らを叱りつけ、黙らせようとしました。群衆は過越祭を目指す巡礼者たちでした。中には、「イエスこそイスラエルを救う新しい王だ」と期待していた人もいました。彼らにとって、盲人の叫びは邪魔なものにしか聞こえなかったのでしょう。
Ⅱ:立ち止まるイエス
しかし、主イエスは立ち止まりました。その一言、「立ち止まられた」という言葉に、主の愛のすべてが現れています。人々が見過ごし、押しのけようとする小さな者の声に、主は耳を傾けられたのです。主イエスは盲人たちを呼び寄せ、「何をしてほしいのか」と尋ねられました。目の見えない彼らの願いは明らかです。それでも主は、彼ら自身の口で願いを語らせます。「主よ、目を開けていただきたいのです」この単純で切実な願いに、主イエスは「深く憐れまれた」とあります。イエスは彼らの目に触れられ、たちまち彼らは見えるようになりました。そしてすぐに、彼らは主に従ったと記されています。
Ⅲ:「目」を開かれるイエス
直前の箇所では、ヤコブとヨハネの母が「自分の息子たちを王国で高い地位に」と願いました。それに対して主は、「あなたがたは何を願っているのか分かっていない」と退けられました。けれどもこの盲人たちの願いには、主は心を動かされ、憐れまれました。なぜでしょうか。それは、主イエスの歩みの目的が「仕えられるためではなく、仕えるため」だからです。主は、群衆が期待する王国を建てるために来られたのではありません。見捨てられた者、誰にも顧みられない者、道端で泣く者を救うために来られたのです。だからこそ主は、この二人の叫びを聞き逃さず、彼らのために立ち止まられたのです。
イエスが触れられた「目」という言葉には二つの意味があるといわれます。一つは肉体の目、もう一つは「心の目」です。主はこの時、単に視力を回復させただけではありません。彼らの心の目をも開かれたのです。心の目が開かれる時、人はただ願いを叶えてもらう存在から、主に従う者へと変えられます。癒された盲人たちは、そのまま主のあとに従って歩きました。エルサレムへ、すなわち十字架の道へと。主イエスに出会い、憐れみを受けた者は、新しい人生を歩み始めるのです。
Ⅳ:あなたはイエスに何を願いますか
私たちもまた、人生の苦しみの中で、主に助けを求める者です。「健康をください」「人間関係をよくしてください」「問題を解決してください」
そう願うことは悪いことではありません。けれども、主が本当に触れようとしておられるのは、私たちのもっと深いところ――心の目の盲目、神の憐れみを知らずに生きている心なのです。悩みが一つ消えても、また新たな悩みが生まれる。悲しみが癒えても、また別の悲しみに出会う。それがこの世の現実です。しかし、主の憐れみを知る時、私たちの心に真の光が差します。泣き叫ぶ小さな者のために足を止められる主が、今も私たちの声を聞いてくださるのです。
「あなたは何をしてほしいのか」この主の問いに、私たちは何と答えるでしょうか。願いが言葉にならなくても大丈夫です。主は私たちの心の痛みを知っておられます。主の深い憐れみこそが、私たちの本当の問題を癒し、新しい命へと導いてくださるからです。 主の憐れみは限りなく深く、キリストこそ、私たちを新しく生かす真の救い主です。どうか私たちも、盲人たちのようにただ一言、こう祈りましょう。 ――「主よ、憐れんでください。」と。