2025年11月02日 朝の礼拝「神の子は仕えるために」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2025年11月02日 朝の礼拝「神の子は仕えるために」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 20章17節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 20章17節~28節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:イエスの三度目の受難予告とゼベダイの母子の願い
 今日の箇所で主イエスは、三度目の受難予告をお語りになりました。 特に注目すべきは、ご自分が「異邦人=ローマ」の十字架刑によってもたらされる殺される、と明らかにしておられることです。そこで、「そのとき、ゼベダイの息子たち(=ヤコブとヨハネ)の母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」のです。ゼベダイの子の母親は、主イエスの十字架刑の場面に立ち会った婦人たちの中にも見出すことが出来ます(27章56節)。彼女はこの時、主イエスがローマの支配を打ち破ってイスラエル人の王国を再建した暁には、自分の息子たちを側近として取り立てて欲しいと願ったのです。そしてこの時、母親の後ろには、当の兄弟も控えていました。ですからこの願いは母親だけでなく、彼ら自身の願いであったことは明白です。

Ⅱ:イエスの杯を飲む
 すると主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」とお答えになりました。この「主イエスが飲もうとしておられる杯」とは、これから主イエスが味わうことにある「十字架の死と苦しみ」を指しています。ですから、「主イエスの杯を飲む」とは、主イエスの十字架の死と苦しみを自らも背負うということを意味しているのです。
 この主イエスの問いに対してヤコブとヨハネは、いとも簡単に「できます」と答えています。彼らは、強がってこう言っているのではありません。後のペトロと同じように(26章31節以下)、この兄弟もまた、自分は主イエスに従って命を捨てることが出来ると、本心から、信じていたのです。しかし、弟子たちは主イエスと共に十字架で死ぬどころか、主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。結局、彼らは主イエスの飲む十字架の苦しみという杯を飲むことは出来なかったのです。
 ところが、そのヤコブとヨハネに対して、23節で主イエスは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」と述べて、彼らがやがて主イエスの十字架と復活を宣べ伝えるがゆえの苦難を背負うことになると予告しておられます。しかし、主イエスが「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」と言われている通り、彼らが天の国において得るであろう栄光と祝福は、彼らの忍耐に対する「ご褒美」ではありません。それはただ、神が御心に従って「恵み」として与えて下さるものなのです。しかし、この時のヤコブとヨハネの兄弟は、神の国の栄光を自らの努力や忍耐に対する報酬だと考えていました。そして、人がそのように自分の忍耐や熱心さによって神の栄光にあずかろうとする時、そこには自分と他者とを比較して、より優位に立とうとする思いが生じるのです。

Ⅲ:神の国のルール
 すると今度は、そのヤコブとヨハネの行動を知った他の十人の弟子たちが、彼らに怒りを燃やして非難したのです。彼らもまた、ヤコブたちと同じ思いを心の奥に持っていたのです。そこで主イエスは、この世の論理―力のある者が権力の座に着き、自分よりも劣った者を支配する「力による支配」が横行している世界―について語ります。そして神の国は、そういうこの世の理屈とは異なる力は働いている場所であると教えられるのです。すなわち神の国は、「皆に仕える者」「僕となる者」が最も偉い者となる世界なのです。
 もちろんそれは、皆に仕える者となり、僕となる人が、神の国で一番高い地位に就くことができると言っているのではありません。むしろ、そのような思いを捨て去って、皆が仕える者、僕となる、それが神の国の在り方なのだと教えているのです。

Ⅳ:仕えられるために来た主
 そして、私たちがそのように互いに仕える者にならなければならない根拠について、主イエスは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」とお語りになっておられます。主イエスはここで、ご自分がこの世界に来られたのは、ローマの支配を打ち破るためでも、ユダヤ人の王国を築くためでもなく、多くの人の身代金として自らの命を捧げて、彼らを解放するためなのだと言われるのです。しかもそれは、私たちがご自分に忠実な、信仰深い者であるからでも、命を代償として払うのに値する立派な者たちだからでもありません。命を懸けて救い出す価値など全くない、愚かで不信仰な者のために、主イエスは十字架の死と言う最も苦い杯を一滴残らず飲み干して、仕える者となってくださったのです。私たちが誰かに仕える前に、神の御子が私たちの僕となり、十字架の死に至るまでご自分を低くして私たちに仕えてくださったのです。
 主イエスの右左の席に着くためでもい、苦しみの先にある将来の栄光に期待してでもない。そのキリストの無償の愛に生かされている喜びと感謝に突き動かされる時にだけ、私たちは自分以外の誰かの僕となって、仕える者として生きていくことが出来るのです。 
それが私たち、地上の神の国として建てられている教会の交わりの在り方なのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す