2022年08月14日 朝の礼拝「イエスは再び来られる」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2022年08月14日 朝の礼拝「イエスは再び来られる」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
使徒言行録 1章6節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 1章6節~11節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:世の終わりの不安と偽りの予言
 かつて日本で「ノストラダムスの大予言」がベストセラーになり、1999年に世界が滅びるという噂が社会を騒がせたことがありました。冷戦下の核戦争の恐怖と重なり、不安を抱いた人たちもいましたが、しかし結果はご存じの通りです。1999年が来ても何も起こりませんでした。歴史を振り返れば、古今東西、多くの者が「世の終わり」の時期を特定しようとしてきました。キリスト教の周辺でも「いつ、どこにイエスが再臨する」と預言して人を集めるグループが現れたことがありますが、それらが的中した例はただの一度もありません。
 それにしても、人々がこうしたオカルト的な予言や終末論に心を揺さぶられるのは、心のどこかで「この世界には終わりがある」という真実を予感しているからかも知れません。少なくとも聖書は、この世界には必ず終わりが来ると繰り返し述べています。しかし、その「終わりの日」に対する向き合い方については、この世のオカルト的な理解とは全く異なる教えを与えておられます。

Ⅱ:時を知ることは人間の領分ではない
 使徒言行録1章で、弟子たちは復活したイエスに尋ねました。「イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」。彼らはイエスの復活という奇跡を目の当たりにし、今すぐ「神の国」が完成し、ローマの支配から解放されることを切望したのです。しかし、イエスの答えはそっけないものでした。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。
 マタイによる福音書でも、イエスはその日、その時は天使も子(イエス自身)も知らず、ただ父なる神だけがご存じであると語られています。つまり、世の終わりがいつ来るかは、人間が関知し、心配すべき事柄ではないというのです。もし誰かが「何年何月に世の終わりが来る」と断定的に語るなら、その人は間違いなく偽預言者です。主イエスですら「知らない」と言われたことを「知っている」と称する人の言葉を、私たちは信じる必要も、恐れる必要もありません。

Ⅲ:待たれている神の忍耐と私たちの使命
 イエスは「いつ来るか」という問いに答える代わりに、弟子たちが「何をすべきか」を示されました。
「あなたがたの上に聖霊が来ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく……地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。
 これが地上におけるイエスの最後の預言であり、私たちに託された仕事です。
 なぜ神は、今すぐに世を終わらせないのでしょうか。もし弟子たちが願ったその瞬間に神の国が完成していたら、後に続く私たちは救われる機会を失っていたでしょう。神が世の終わりを今も待っておられるのは、ご自分が選び、愛された最後の一人が救いの門に入るまで、忍耐強く待っていてくださるからです。その救いの知らせを地の果てまで告げ知らせるために、私たちはこの地上に、今の時間に、置かれているのです。

Ⅳ:今日という日を「証人」として生きる
 イエスは天に昇られましたが、それはただ遠くから私たちを眺めているのではありません。ギリシャ語で「昇る」には「進んで行く」という意味が含まれています。イエスは聖霊を通して私たちの先に立って歩み、道を開いてくださっています。そして、昇られた時と同じ姿で、いつか必ず戻って来られます。私たちが世の終わりの日に備えるとは、カレンダーを見て日付を計算することではありません。ましてや、恐怖に震えて待つことでもありません。備えて生きるとは、再び来られる主を信じ、今日という一日を「キリストの証人」として誠実に生きることです。
 しかし、私たちは不安なニュースや惑わしの声に耳を奪われるのではなく、「あなたがたはわたしの証人になる」という主の招きに耳を傾けるのです。聖書の御言葉に立って歩む者にとって、世の終わりの日は「恐れるべき日」ではなく、愛する主との再会を喜ぶ、最高に幸せな完成の日となるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す