1. 序:教会の歴史の「第一巻」
今日から私たちが読み始めるのは「使徒言行録」です。この書物は、ルカ福音書の著者であるルカが、同じ「テオフィロ(神の友)」という人物に宛てて書いた続編、いわば「第二巻」にあたります。ルカは冒頭で、第一巻(ルカ福音書)において、イエス様の地上の生涯、その教えと業、そして天に上げられた日までのすべてを記したと述べています。そして、この第二巻では、イエス様が天に昇られた後の弟子たちの歩み、すなわち「教会の始まりの歴史」が記されていきます。
ここで私たちが心に留めるべき大切な論理があります。それは、教会の歴史(第二巻)は、イエス・キリストの生涯と十字架・復活(第一巻)という土台なしには存在し得ないということです。ペトロやパウロの目覚ましい活躍も、それが単なる偉人伝であっては意味がありません。彼らの働きの前には、必ず主イエスの十字架と復活という「第一巻」があります。恵那教会の歴史も、そして私たち一人ひとりの信仰の歩みも、時代を超えてこの「第一巻」に直結しているのです。
2. 真の主人公:聖霊を通して働くイエス
使徒言行録は、一見すると使徒たちの活動記録ですが、その真の主人公は人間ではありません。ルカは、イエス様が「選んだ使徒たちに聖霊を通して指図を与えた」と記しています。福音書の終わりで約束された「父が約束されたもの(聖霊)」が、この第二巻を動かす大きな原動力となります。イエス様は天に昇られ、目には見えなくなりましたが、聖霊を通して今も弟子たちに指図を与え、働いておられます。それゆえ、使徒言行録の時代(教会の時代)は「聖霊の時代」とも呼ばれます。使徒たちが大胆に御言葉を語り、人々に影響を与えていったのは、彼らの能力によるものではなく、彼らを通して働く聖霊、すなわち天におられる主イエスの働きによるものでした。使徒言行録とは、「天に昇られた主イエスが、聖霊を用いて地上でなしておられる働き」の記録なのです。
3. 信仰の本質:「待つ」ということ
本編が始まる3節以下で、復活されたイエス様が弟子たちに最初に命じられたことは、意外なことでした。それは「すぐに伝道に行け」ということではなく、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい」ということでした。これから全世界に遣わされる使徒たちにとって、最も重要な準備は「待つ」ことだったのです。なぜなら、聖霊が降らなければ、彼らは自分の力で空回りするだけで、本当の意味で「使徒」となることはできないからです。
現代の私たちは、とかく「まず行動すること」を美徳としがちです。「失敗してもいいからやってみよう」「考える前に動こう」という風潮の中で、私たちは神様がしてくださるのをじっと待つことが苦手になっています。自分の力で何とかしようと焦る時、そこには聖霊が働く余地がなくなってしまいます。しかし、信仰の歩みにおいて最も大切なのは、神様の計画されている「時」を待つことです。教会の業とは、人間が頑張って大きくするものではなく、聖霊が働く時を信じて待つ人々の群れの中に、神様が働いてくださる出来事なのです。
4. 確信に基づいた「待ち望み」
弟子たちが静かに待つことができたのは、彼らに揺るぎない「確信」があったからです。彼らは復活された主と出会い、40日間にわたって共に食事をし、主が今も生きておられるという数多くの証拠を受け取りました。「この方は本当に神の子であり、死に勝利された方だ」という確信があったからこそ、その主が「聖霊を送る」と約束されたのなら、それは絶対に実現すると信じて待つことができたのです。
私たちは当時の弟子のように、肉体を持った復活の主と食事をすることはできません。しかし、私たちには「御言葉」があり、「説教」があります。そして「聖餐式」において、霊的に主と共に食事をし、主の愛と命にあずかることができます。私たちが今日、こうして「主は生きておられる」と信じ、神の時を待とうと思えること自体、実はすでに私たちの内に聖霊が働いてくださっている証拠です。
イエス様が私たちの教会に、これからどのような働きをさせようとしておられるのか、先のことはまだ分かりません。しかし、私たちが焦りや成果主義に走るのではなく、主の約束を信じて静まり、聖霊の働きを待つとき、神様は必ずふさわしい時に新しい扉を開いてくださいます。「間もなく聖霊による洗礼を授けられる」という主の約束は、今の私たちにも有効です。この約束を握りしめ、聖霊が私たちをどのように用いてくださるのかを楽しみに待ち望みながら、一歩ずつ歩んでまいりましょう。