Ⅰ:ナインの葬列
葬儀は、私たちが日常において「死」に最も近づく場面の一つです。ある時、主イエスは、弟子たちや群衆たちと共にナインという町を訪れました。するとそこで、町の門から出てくる若者の葬儀の列とであったのです。この若者は、ある未亡人の母親の一人息子でした。聖書の時代において未亡人は社会的弱者でしたから、彼女にとっては残された息子が精神的、経済的に大きな支えとなっていたのです。ところが、その息子が自分よりも先に死んでしまったのです。この母親の嘆きと悲しみは如何ばかりであったでしょうか。
町の人々も、この母親を気の毒に思い、少しでも慰めてあげたいと思って葬列に参加していたのでしょう。しかし、彼らに出来ることは、母親と一緒に死者の亡骸を葬るために町の外に向かうことだけでした。ここにも死の力の前に無力な人間の姿があります。
Ⅱ:もう泣かなくても良い
そして、この様子をご覧になった主イエスもまた、愛する息子を亡くした母親を見て憐れに思われたのです。「憐れに思う」という言葉は「内臓」を意味する言葉で「内臓を揺さぶられる」「腸がよじれる」というような、激しい憐れみを現わす言葉です。主イエスは、通りがかりにたまたま出くわした葬儀の列をご覧になり、嘆き悲しんでいる母親に対して、胸が張り裂けるような深い憐れみを覚えられたのです。すると主イエスはこの時、母親に近づかれると「もう泣かなくともよい」と言われたのです。 主イエスはここで、息子を失った悲しみに暮れている母親に対して「泣くな」と言われるのです。
一体なぜ主イエスは、こんな言葉を掛けられたのか。その真意は、この後の主イエスの行動によって明らかになります。主イエスは、葬儀の列に近づくと、手を伸ばして棺に触れられました。そこで棺を運んでいた人々は足を留めました。そして遺体に向かって「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じられました。「起きなさい」という言葉は、聖書において「死者の復活」を意味する言葉としても使われます。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」のです。そこで主イエスはその息子を母親にお返しになりました。
Ⅲ:悲しむ者に「近づく」イエス
ある本の中に、骨肉腫という骨の癌にかかって、わずか十七歳という若さで亡くなった高校生の女の子が、闘病中に書いた日記の一部が掲載されていましたが、その中で少女は自分が今日生きている目的を見失い、自分がどこにも行く場所がない、どこに行っても生きる希望を見出せない、という心情を正直に告白していました。
今日のお話に出てくる母親もまた、死の力の前に生きる目的を失い、自分がどこに行けば、何をすれば希望を見出すことが出来るのかわからずに、途方に暮れていました。彼女には、ただ泣き叫ぶことしか出来ませんでした。しかし、その母親のところに、主イエスが近づいて来られたのです。母親自身が助けを求めた訳ではありません。恐らく彼女は目の前にいるのが誰かも知らなかったでしょうから。主イエスは、ただ一方的にこの母親に目を留められて、一方的に彼女に対して腸が揺さぶられるような憐れみを抱かれたのです。そして、イエスの方から葬儀の列に「近づいて」、死者の世界へ若者を送る葬儀の歩みを留められたのです。そして母親の悲しみに、死んでしまった青年に「近づいて」、彼を死から命へと復活させ、母親に生きる希望を取り戻させたのです。
Ⅳ:死に勝つ慰め
キリストこそ、愛する者を失って苦しんでいる者の魂に近づいて来られて、その深く傷ついた者の悲しみを深く憐れまれるお方です。そして、死に打ち克つ慰めを与える権威と力を持っておられる「真の神」なのです。そして、死に打ち克つ希望を与えることが出来るお方は、その他のあらゆるこの世の苦しみにも打ち克つことが出来るお方なのです。
ですから、そのキリストが与えてくださる希望は、死んだら天国へ行くことが出来るという「来世にかける希望」ではありません。キリストは、今私たちが心に抱えている耐えがたい痛みや悲しみに目を留められて、その私たちを深く憐れまれ、そして私たちの喜びと希望を回復させてくださるのです。キリストこそ、「どうせいつかは死ぬのだから」という諦めでもなく、来世に望みをかけるむなしい慰めでもなく、「今日、命の主であるイエス・キリストが私と共におられる。私を胸が張り裂けるほどの憐れみをもって愛し、死に勝つ本物の慰めと希望を与えてくださる」真の救い主なのです。このお方を信じて、イエス・キリストを人生の主として迎え入れるなら、私たちは今日からでも、この本当の希望を持って、死にも打ち勝つ人生を生きることが出来るのです。