2025年10月12日 朝の礼拝「最後の者に与えられる恵み」

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2025年10月12日 朝の礼拝「最後の者に与えられる恵み」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章27節~20章16節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:27 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
19:28 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
19:29 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 19章27節~20章16節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:ペトロの質問
 前回は、19章後半にあります、ユダヤ人青年と主イエスの間で交わされた「永遠の命」を巡るやり取りをご一緒に見ました。そこでこの青年は、自分が必死に努力して得て来たものを最後まで捨てるということが出来ずに、悲しみながら主イエスの前を去って行ったのです。
 すると弟子のペトロが口を開いて「自分たちは仕事も家族も捨てて、あなたに従ってきたのです。その私たちにはどんな見返りがあるのでしょうか」と尋ねたのです。先程主イエスから「永遠の命は人間の努力や修練に対する見返りとして与えられるのではない」と教えられたばかりなのに、ペトロはここでもうそのことを忘れて「すべてを捨てて主イエスに従ってきた」という自らの行いを誇り、そしてその見返りを求めているのです。
 しかし、主イエスはここで、そのペトロの誤りを指摘して、彼の愚かさを責められるのではなく、私に従うために大切なものを捨てる決断をしたあなた方は百倍の報いを受け、そして最後には永遠の命を受け継ぐことが出来るだろう、とお答えになったのです。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てる」とは、家族や仕事、財産を頼りとして生きるのではなく、神の愛と恵みにのみ寄り頼んで生きるということです。そうやって、自分が握りしめている何かを捨てて神の憐れみを求める時に、人は手放したもの以上のものを恵みとして受け取ることが出来、そして最後には永遠の命をも受け取ることが出来るのです。人間の力(地上の富)に依り頼むことを止めて、神に望みを掛けて生きていく信仰者には、そういう豊かな祝福の実りが約束されているのです。

Ⅱ:ぶどう園の主人のたとえ
 ところが、そう言われた後で主イエスは「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と付け加えておられます。そして、続けて語られているのが「ぶどう園の労働者のたとえ」です。
 このお話の中で、朝から働いていた人々は、自分たちが五時から働いていた人々と同じ一デナリオンしかもらえないと分かると、ぶどう園の主人に対して文句を言い始めました。そして、その彼らの気持ちは私たちにも分からない訳ではありません。より多く働いた者、より多く貢献したものが、より多くの報酬を得る。それがこの世界の常識であり、この主人のしていることはこの世の常識からすれば「常識外れ」です。しかし冒頭に「天の国は次のようにたとえられる。」と語られているように、これは現実の世界の姿ではなく、「天の国(神の国)」についてのたとえ話です。神の国は、この世の論理とは全くことなる場所なのです。

Ⅲ:先の者が後になる
 朝から雇われていた者たちは、彼ら自身もまた、元々仕事にあぶれて何もすることがない失業者であったということを忘れて、一デナリオンを「恵み」ではなくて、労働の対価として、報酬として考えていたのです。しかし、五時に雇われた者たちにとっては、一デナリオンはまったく自分たちの働きに相応しくない金額であり、ですから、彼らにとっては、働きに対する「報酬」ではなく「恵み」なのです。神の国とはこの神の愛と憐みによって支配されている場所なのです。
 このたとえ話の切欠となる質問をしたペトロは「自分は財産を捨てることを拒んだ青年と違い、仕事も財産も家族も捨てて主イエスに従ってきた。だからその犠牲に対する報いを頂けるに違いない」と考えたのです。ペトロは自分自身を「早朝から汗まみれになって働いた先にいる者」だと考えていたのです。しかしそのペトロが、やがて主イエスがユダヤ人の指導者たちに捕らえられて、ローマ帝国へ引き渡された時、彼は三度、「イエスなど知らない」と公衆の面前と叫びました。この「知らない」と訳されている言葉が「捨てる」という言葉です。今日の箇所で「私はあなたのために何もかも捨ててきました、こんなにも犠牲を払ってきました」と述べたペトロが、自らの命を守るために「イエスを捨てます」と三度宣言したのです。そこで初めて、自分が主イエスから報酬を受け取る資格があるどころか、自分は神の御子を裏切った罪によって神の裁きを受けなければならない「後の者」であるということを思い知らされたのです。
 そして、その許されるはずのない罪を犯すことになるペトロを、主イエスは新しい神の民の十二部族を治める座につけると約束してくださっているのです。それは、ペトロ自身の功績や犠牲とは何の関係もありません。それはただ、主イエスがペトロを憐れんでくださったことによる「恵み」に他ならないのです。

Ⅳ:最後の者に注がれる恵み
 ここにいる私たちも本来、神から何か報酬を受けることを期待できるような「先の者」ではなく、自らの罪に対する神の裁きを受けて滅びなければならない「後の者」なのではないでしょうか。しかし神は、その私たちにも「恵みを与えたい」と願ってくださるお方です。誇るべきものもなく、本当の生きる目的も、喜びも見失っている、そういう「何もせず」に佇んでいる者にも「『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。私のぶどう園に来て、働きなさい。まことの喜びに満ちた人生を、そして永遠の命を、恵みとして受け取りなさい』と呼び掛けて、生きる意味を与えてくださる憐れみ深いお方なのです。その主の恵みと愛は今日も、この最後に招かれた私たちのような小さな者にも、豊かに惜しみなく注がれているのです。

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