2025年10月05日 朝の礼拝「人には出来なくても 」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2025年10月05日 朝の礼拝「人には出来なくても 」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 19章16節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 19章16節~26節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:青年の問いとイエスの答え
ある時、一人の青年が主イエスのもとを訪れて「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねました。すると主イエスは、『救われるための善い行いは、私に尋ねなくても旧約聖書の中に書かれている。それを守りなさい』とお答えになったのです。この答えはしかし、ユダヤ人青年にとっては当たり前のことでした。そこでこの答えに満足することが出来なかった青年は「そういうことはみな守ってきました。」と反論します。そして彼は、実際そう言えるほど忠実に律法に従って生きてきたのです。しかも彼は、ユダヤ人の最高議会の議員の一人でもあり、また多くの財産を持っている金持ちでもありました。にも関わらず、彼の心は満たされず、「まだ自分には何かが足りていないのではないか」という思いを打ち消すことが出来なかったのです。
 すると、主イエスは改めてこの青年に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とお答えになったのです。しかし、主イエスの「持ち物を全て売り払いなさい」という命令は、それを実行すればあなたは完全になって、永遠の命を得ることが出来るということではありません。むしろ主イエスはここで「あなたのそのやり方ではどこまで行っても永遠の命を得ることなど出来ないのだ」ということをこの青年に悟らせるために、「持ち物をすべて売り払え」と命じておられるのです。

Ⅱ:「足りない」のではなく「多すぎる」
 この金持ちの青年は、聖書の戒めを忠実に守り、善い行いをして、自分に徳を一つ一つ積み重ねて行けば、やがて自分は永遠の命を得るに相応しい、欠けのない完全な者となって救われることが出来ると考えていました。それが彼の人生観、価値観でした。しかし主イエスは、あなたは「足りていない」のではない、むしろ多くのものを持ち過ぎていて、だから永遠の命を得ることが出来ないと言われるのです。
 言ってみればこの青年は、自分がしてきた善い行いを両手に一杯に載せた手を主イエスに差し出して「私はこんなに善いことをしてきました。まだ何か足りませんか」と尋ねているのです。そこで主イエスは、「あなたの手には、神が下さる救いを受け取る場所がどこにもない。だから今、自分が握りしめているものを手放して、両手を空っぽにしなさい。そうすればあなたは、神が「プレゼント」としてくださる永遠の命を受け取ることが出来る、と言われるのです。そしてそれが、「天に宝を積む」ということなのです。

Ⅲ:金持ちは救われない?
 「天に宝を積む」とは、私たちがこの世において善い事をすれば、それを神が天国で数えていてくださって、その行いに応じて救いが決められるということではないのです。「天の富」というのは、私たちの善い行いではなくて、神がくださる恵みのことです。むしろ、自分の正しさや善い行いという地上の富によって救いを得ようとする思いを捨て去って、ただ神の恵みのみにより頼むことによって、「神の恵み」という富が、天に積み上げられていくのです。しかし結局、この青年は、その主イエスの言葉に従って、地上の富を手放して、天の富を積むという決断をすることが出来ませんでした。そこで「悲しみながら」主イエスの前を立ち去ることになったのです。
 そこで、彼が立ち去ると主イエスは、今度は弟子たちに向かって「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。・・・金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われたのです。それは実質的に「不可能だ」と言っているのです。弟子たちはこの主イエスの言葉を聞くと驚いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と漏らしたのです。つまり、彼らは主イエスの言われる「金持ち」が、単にお金や物をたくさん持っている人のことではなく、律法を忠実に守ることや善い行いをすること(=自分自身の豊かさ)によって救われようとしている人のことであると悟ったのです。そうであれば、これはこの青年だけの問題ではなく、自分たちもまた救われることなど不可能なのではないかと感じたのです。

Ⅳ:人には出来ないが神には出来る
 すると、その戸惑う弟子たちを見つめながら、主イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」という、希望に満ちた言葉を語られるのです。確かに神は、たとえ私たちがどんなに罪深い、愚かで弱い者であったとしても、その私を天の国へと招き、永遠の命を与えることがお出来になります。実は「神が全能で何でもできる」ということは、反対に私たちを「滅ぼすこともお出来になる」ということです。しかし幸いなことに、神は全能であると同時に、私たちを深く愛し、憐れんでくださる神でもあられるのです。だから私たちは救われるのです。この「神が愛である」という事にこそ、私たちの希望があるのです。そしてその神の愛がはっきりと示されたのがキリストの十字架です。
 永遠の命は、私たちが必死に歯を食いしばって正しい生き方を守り、自分の努力で神に近づかなければ得られないのではありません。自分で自分を必死に打ち叩いて、努力して、キリスト者らしくいなければならないと考えて、息の詰まるような信仰生活を送る必要はないのです。神の御子であるキリストが、ご自分の栄光を捨てて、私たちの方に来てくださった、そして今も私たちを愛の眼差して見つめておられる、その平安と喜びの中で、キリストの前に空っぽの両手を差し出して、キリストの十字架の愛を子どものように素直に受け取るということ、それが私たちが永遠の命を得ることが出来るただ一つの方法なのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す