Ⅰ.イエスと子どもたち
主イエスがエルサレムへ向かって旅をしておられると、そこに子どもを連れた親たちがやって来ました。彼・彼女らは、我が子の元気な成長を祈ってもらおうとして主イエスのもとを訪れたのでした。ところが、側にいた弟子たちは親たちを叱りつけて、子どもを主イエスに近寄らせないようにしたのです。当時のユダヤ人社会において「子ども」は、律法の戒めを知らず、守ることの出来ない未熟で不完全な存在として低く見られていた存在でした。ですから、弟子たちはそういう未熟で役に立たない「子ども」が、主イエスに近づくのは相応しくないと思ったのでしょう。そしてそのような子どもを連れてきて、主イエスの手を煩わせようとした親たちに腹を立てて叱りつけたのです。
ところが、その弟子たちの態度をご覧になった主イエスは、子どもたちがご自分のところに来るのを妨げないように命じたのです。なぜなら、14節後半で主イエスが「天の国はこのような者たちのものである」と言われているように、弟子たちが「主イエスから祝福を受ける資格のない者」と見なした「子ども」こそが、主イエスが天の国に招こうとしておられる人々に他ならならなかったからです。
Ⅱ.神様の贈り物(ギフト)を素直に受け取る
そしてこの、13節から15節の子どもたちの祝福のエピソードに続いて、16節以下では、一人の金持ちの青年が「永遠の命を得る方法」について主イエスに尋ねたといエピソードが記されていますが、この青年と子どもたちとは全く対照的な存在です。青年は非常に多くの財産を持っており、律法を忠実に守って来た立派な人物でもありました。 それに対して子どもたちは、財産と呼べるようなものは何もなく、律法の戒めを守ることも出来ません。しかしそんな風にm誰かの役に立つことも出来ない、自分を誇れるようなものを何も持たない「子ども」こそ、天の国に相応しい者たちであると、主イエスは言われるのです。すなわち天の国は、そこに入るのに相応しい立派な善い行いをした人に与えられるのではなく、誇るべきものを何も持っていない者に、ただ贈り物(ギフト)として神が与えてくださるものなのです。「子どものようになる者」とは、無力な何も出来ない者であると同時に、その神がくださる贈り物を素直に喜んで受け取ることが出来る者でもあるのです。
ただ一人の善いお方である神が「ギフト」として差し出してくださるキリストの救いを、ただ素直に受け取ること。キリストの愛の懐に、何も持たずそのままの姿で飛び込んでいくこと、それが罪人である私たちが永遠の命を得ることが出来るただ一つの方法なのです。自分の力や善い行いに頼るのを止めて、子どものように神の憐れみにのみ信頼すること、たったそれだけで、私たちは救われて永遠の命を得ることが出来るのです・
Ⅲ:どこまでも追いかけてくださるキリスト
ところが、このたった一つのことが、私たち「大人」を自負する者には難しいのです。私たちもまた「自分」を捨てることが出来ず、子どものように神に信頼することが出来ずに、何度、主イエスの前を立ち去ってきただろうかと思うのです。もし私たちが今日の金持ちの青年のお話と違うところがあるとすれば、そうやって主イエスの前を悲しみながら立ち去った私を、キリストは黙って放っておかれなかったということです。子どものようになってキリストの愛の懐に飛び込む勇気も力もない私を、キリストが追いかけて来てくださり、私を子どものように抱き上げてご自分の救いへと招き入れてくださったのです。
キリストは、迷い出た一匹の愚かな羊を、どこまでも探して連れ帰ってくださる良い羊飼いであり、愚かな部下の負債をすべて肩代わりする、憐れみ深い王です。そのキリストは、ご自分を信頼して全てを委ねることの出来ない、弱く傲慢な私たちを退けられるのではなく、それでもなお「天の国はこのような者たちのものである。」と言ってくださるお方なのです。今日もキリストは、悲しみながら立ち去ろうとする者を追いかけて、その愛の懐にしっかりと抱いて受けとめようとしてくださいます。