Ⅰ:結婚を巡る議論
エルサレムへ向かって歩まれる主イエスのもとに、ファリサイ派が再び現れると、「離婚」の律法的解釈について論争を挑みました。
旧約聖書の律法の中で「離婚」についてはっきりと触れているのは申命記24章ですが、そこで「妻に何か恥ずべきことを見いだした場合は離縁できる」と書かれている「恥ずべきこと」とは一体何かということについて①不貞行為に限定される②料理がまずいなどの些細な理由でも離縁できる、という二つの解釈が現れました。ちなみに、今日の質問では「妻が夫を離縁する」というケースは想定されていません。男性優位の社会において女性は「男性の所有物」と見なされていたからです。そしてそういう社会においてユダヤ人男性が支持したのは②の立場でした。
それに対して主イエスは、ユダヤ人たちが議論していた申命記ではなくて、創世記の御言葉を取り上げて答えています。主イエスはここで、結婚とは天地創造のはじめにおいて神が定められた「創造の秩序」に関わる制度なのだと答えになりました。結婚とはその神の御心によって成り立っているのであって、その神の心を無視して、あたかも男性の意志によってのみ結婚や離婚が成り立つと考える態度にこそ大きな誤りがあると指摘するのです。ですからここで主イエスは、離婚の是非について語っているのではありません。もっと深いところで、「結婚」とは何なのかということを鋭く問い掛けているのです。
Ⅱ:三種類の独身者
主イエスは、ファリサイ派を始めとする、当時のユダヤ人男性が持っていた結婚・離婚観に対して、「妻を自分の所有物として支配するのではなく、共に生きるために神に作られた対等のパートナーとして受けとめて、自分の思いではなくその神のみ心にあって、夫婦が一つになって生きていく」という本来の結婚の在り方をお示しになりました。しかしそれは言ってみれば、男性が今の男性優位な立場を捨てて、自らを低くして相手と対等の立場に立つということです。そこで弟子たちもまた「今更そんな風に自分を変えることは不可能です。そんな要求されるのであれば、そもそも結婚などしない方が良いではないですか」と本音を漏らしたのです。
それを聞いた主イエスは弟子たちを叱るのではなく、それを受けとめた上で「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」とお答えになりました。更に続けて主イエスは、①何らかの身体的な理由によって結婚できない人々②宦官と呼ばれる、社会的な理由で結婚しない人々③神の働きに生涯を捧げるために結婚しない人々、という三種類の独身者を取り上げています。彼らはそれぞれ結婚しない理由は違いますが、当時のユダヤ人社会においては神の祝福に与ることが出来ないとされていた人々です。しかし主イエスはここで、そういう人々を否定的に見るのではなく、既婚者、独身者それぞれの多様な生き方を認めておられるのです。
Ⅲ:恵みとして受け入れる
それは単に「生き方や価値観は人それぞれ」という意味での多様性ではありません。11節、12節で主イエスが繰り返し「受け入れる」という言葉を語っておられますように、結婚するにしろ、独身でいることを選ぶにしろ、大切なのはそれを神からのものとして「受け入れる」ということです。ファリサイ派の人々や弟子たちを始めとするユダヤ人男性の主張は、結局自分たちの都合と意志ばかりで、創造の始めに結婚という神秘をお定めになった「神」のみ心はどこかにすっぽりと抜け落ちてしまっています。しかし主イエスは結婚するにしろ、あるいは独身者として生きるにしろ、それはあなたがたが自分の意志や都合で決めることではない、それは神がお決めになることであると言われるのです。
ですから、今日の御言葉は、単に離婚や再婚が良いとか悪いという表面的なことを教えているのではありません。結婚にしろ、独身にしろ、それらはすべては神が私たち一人一人に与えておられる「恵み」であり、「賜物」なのだということです。今日の御言葉はそんな風に、私たちが今、神によって与えられているものを「恵み」として受け入れて、それを大切にして生きるという積極的な姿勢を教えているのです。
Ⅳ:十字架の罪の赦しに支えられて
今日の結婚についての教えは、18章の「罪の赦し」の具体的な展開であると同時に、エルサレムでの十字架の死に向かう主イエスの歩みの導入でもあるのです。そして、夫婦が真に互いを対等な関係として受け入れ合うということは、互いの罪や弱さを赦し合うということなしにはあり得ません。その「赦し」の関係は、このキリストの十字架の死による罪の赦しの恵みによって支えられているのです。キリストの十字架による罪の赦しがあるからこそ、夫婦は、お互いの弱さに向かい合って、その弱さを赦し合いながら共に生きていくための努力をしていくことができるのです。そして十字架の罪の赦しの中でこそ、独身者、離婚経験者、あるいは色々な事情で夫婦関係に破れを覚えている者も、それを自分の罪として背負うのではなくて、その自らの在り様を神の憐れみ・恵みとして受け入れることが出来るようになるのです。
人は結婚生活だけではなく、親子の関係においても、あるいは職場や学校の人間関係ににおいても、そして教会においても、様々な破れや痛みを抱えています。キリストは、そういう私たちが罪の故に背負っている痛みや破れを回復するために十字架に架かって下さったのです。このキリストの十字架にあって、私たちは今自分が置かれている状況がどのようなものであれ、そこに神の憐れみのみ心があることを信じて、そこに注がれている恵みを信仰によって見出すことが出来るのです。