Ⅰ:戦後八十年の節目に問う「愛」
八月は私たち日本人にとって、特別な意味を持つ季節です。広島、長崎への原爆投下、そしてアジア諸国への侵略と植民地支配という歴史的罪過を振り返り、平和への祈りを捧げる時です。 特に2025年、戦後八十年という大きな節目を迎えました。統計によれば、戦争を直接知る「戦争体験者」は全人口のわずか5.9%にまで減少しています。実体験としての記憶が薄れゆく中で、私たちは今、世界各地で戦火が絶えず、自国第一主義や排外主義が台頭する「新しい戦前」とも呼ぶべき混沌の中に立たされています。
聖書は「敵を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と教えます。しかし、現代社会は分断と対立を深め、その教えとは真逆の「愛なき時代」へと突き進んでいるように見えます。 そもそも「愛(Love)」という言葉は、明治以降に普及した概念であり、それまでの日本文化においては「愛着」や「愛欲」といった、悟りを妨げる否定的な意味で捉えられることもありました。宣教師たちが聖書の説く「愛」を伝えるのに苦労したように、私たちにとっても「愛」とは、どこか掴みどころのない抽象的な概念に映るのかもしれません。 しかし、今日私たちに与えられた聖書の言葉は、この「愛」こそが、すべての能力や知識に勝る「最も大いなるもの」であると、極めて具体的に宣言しています。
Ⅱ:コリント教会が直面した「賜物」の罠
この手紙を書いた使徒パウロは、古代ギリシャの町コリントにある教会に向けて、繰り返し「愛」を強調しました。なぜなら、当時のコリント教会は、現代の私たちと同様に、愛の意味を履き違え、深刻な不和の中にあったからです。教会内部では派閥争いが絶えず、愛餐会(食事会)では富める者が先に食べ、貧しい者が飢えるという格差が放置されていました。さらに問題だったのは、神から与えられた特別な能力である「賜物(たまもの)」を巡る優越感と劣等感でした。
「異言(霊的な言葉)」や「預言(神の言葉を取り次ぐ力)」、あるいは深い知識を持つ者たちが、それを自分の誇りとし、特別な力を持たない人々を軽んじていたのです。パウロは、そのような人々の慢心を見抜き、鋭く指摘します。「たとえ天使の言葉を操り、山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ、無に等しい」と。
私たちは、自分がどのような能力を持ち、社会で何ができるかということに常に心を砕いています。特に他者と比較される現代社会において、私たちは自分の持つ「賜物」によって一喜一憂します。他人より優れていれば高ぶり、劣っていれば自己卑下に陥る。コリント教会の人々が陥った罠は、まさに私たちの日常そのものです。
しかしパウロは語ります。あなたがたが誇る知識や能力、あるいは世俗的な富や学歴、地位といったものは、時と共に「廃れていくもの」に過ぎません。人生の虚しさや不満足の根源は、それらの能力が足りないことにあるのではなく、永遠に滅びることのない「本物の愛」を知らないことにあるのだと、聖書は断じるのです。
Ⅲ:愛は概念ではなく「お方」である
パウロは「愛は寛容であり、情け深い……」と、愛の性質を具体的に列挙します。これらは、私たちが努力して到達すべき道徳的な目標ではありません。もしこれが単なる理想論であるなら、苦難に満ちた現実の前で、この言葉は空虚な響きとなって消えてしまうでしょう。 今この瞬間も、飢餓や戦火の中で命を落とす子供たちがいる現実の中で、「愛は決して滅びない」と胸を張って言える根拠はどこにあるのでしょうか。
パウロがここで語っている愛は、頭で考え出した抽象的な哲学ではありません。彼は、この愛を体現して生きた「ひとりの人物」を念頭に置いています。それこそが、イエス・キリストです。
「愛は滅びない」という言葉は、単なるキャッチコピーではなく、二千年前にパレスチナの地を歩み、最後には人間の罪を背負って十字架にかかられたキリストの「事実」に基づいています。キリストの愛は、具体的でリアルなものです。誰もが自分の利益だけを求め、他者の痛みに無関心な時代にあって、神でありながら人となり、私たちの弱さに寄り添い、自らの命を犠牲にしてまで私たちを救おうとされた血の通った愛です。 聖書に記された愛の定義——「自分の利益を求めず」「恨みを抱かず」「すべてを忍び、すべてを耐える」——その一つひとつは、キリストが十字架の上で、他ならぬ「あなた」のために成し遂げられたことそのものなのです。
Ⅳ:永遠に残る土台の上に立つ
パウロは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と結びました。 私たちが執着している能力や所有物は、死や時代の変遷と共にいつか必ず失われます。しかし、神がキリストを通して私たちに向けておられる愛だけは、戦争が起ころうと、災害が襲おうと、決して失われることがありません。
現代の私たちは、将来への不安から他者を攻撃し、排除することで自分を守ろうと必死になっています。しかし、不寛容と分断は決して平安をもたらしません。私たちを不安と恐れから解放できるのは、神の側から一方的に差し出された、この圧倒的な愛だけです。私たちが抱える人生の根本的な渇きは、本物の愛に出会うことでしか癒やされません。そして、その最高の賜物は、すでに十字架の愛として私たち一人ひとりに差し出されているのです。
戦後八十年という、平和への責任が改めて問われる今、この「決して滅びない愛」を人生の土台として受け入れようではありませんか。このリアルな神の愛を知り、その愛に生かされるとき、私たちは自分を誇る必要も、他人を妬む必要もなくなります。 この愛に根ざした歩みを始めること。そこにこそ、私たちが追い求め続けてきた真の平和と、揺らぐことのない喜びがあるのです。