Ⅰ:十戒の「かなめ」としての第四戒
私たちは今日、十戒の第四戒である「安息日」の戒めについて学びます。十戒は一般に二枚の石の板に記されたと言われ、第一から第四戒までが「神との関係」、第五から第十戒までが「人間関係」について教えています。この第四戒は、ちょうどその中間に位置し、両者を繋ぐ「扇のかなめ」のような役割を果たしています。なぜなら、私たちが安息日を忘れるとき、神を神として崇めることも、隣人を尊重して平和を築くことも困難になるからです。この戒めは、信仰生活の全体を支える極めて重要な土台なのです。
第四戒はまず、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じます。ここで重要なのは、安息日の本来の目的は「単に仕事を休むこと」それ自体ではない、という点です。「聖別する(聖とする)」とは、あるものを他のものから区別し、神のものとして取り分けることを意味します。 神様は天地創造の際、六日間ですべてを造り、七日目に休まれました。神は疲れを覚える方ではありませんが、あえてこの日を「安息と平安のための特別な日」として選ばれたのです。ですから、安息日は人間の勝手な都合で決めるものではなく、創造の秩序に基づいた神の定めです。私たちは、週の一日を自分の業から離れ、神のために取り分けることで、神の創造のリズムに身を置き、自らの信仰と魂を健全に保つことができるのです。
Ⅱ:人間の弱さへの愛と配慮
かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの人々には、休みなどありませんでした。奴隷は消耗品として扱われ、心身の限界まで働かされる存在でした。そのような彼らを救い出した神様が、「六日間働いた後は仕事を止めよ」と命じられたのは、人間に対する深い愛と配慮ゆえです。 現代の私たちもまた、「休むこと」が苦手な社会に生きています。多くの人が仕事や財産、趣味や娯楽の中に平安を求めますが、それらは一時的な「気晴らし」にはなっても、人生の根本的な問い――「なぜ生きるのか」「死とは何か」――に対する答えは与えてくれません。 神様は、私たちの心身の弱さをよくご存じです。だからこそ、ただ体を休めるだけでなく、神との交わりの中で「魂の休息」を得るための日を定めてくださいました。安息日とは、私たちが生きる目的や喜びを神のうちに再確認し、魂に真の平安を注ぎ込まれる恵みの時なのです。
Ⅲ:旧約の安息日から「主の日」へ
出エジプト記では「創造の御業」が安息日の根拠とされていますが、申命記では「救いの御業」を覚えることが強調されています。私たちキリスト者にとって、最高最大の救いの御業とは、主イエス・キリストの十字架と復活です。 旧約時代の安息日は土曜日でしたが、初代教会の弟子たちは、主イエスが復活された「週の初めの日」である日曜日に集まり、礼拝を守るようになりました。彼らは、復活の主に出会う日こそが、真の休息と平安を与えられる「主の日」であると確信したのです。 私たちは日々の生活に追われると、神の恵みを忘れがちになります。神様は、その忘れっぽい私たちのために、週の一日を意識的に取り分けるよう招いておられます。日曜日の礼拝は、キリストの救いを思い起こし、重荷を下ろして新しい生きる力を頂くための、かけがえのない源泉なのです。
Ⅳ:永遠の安息を見据えて
最後に、安息日の礼拝にはもう一つの大切な目的があります。それは「やがて来る永遠の安息」を待ち望むことです。ヘブライ人への手紙の著者は、困難の中にあった信徒たちに対し、集まることをやめず、互いに励まし合いなさいと記しました。私たちの人生のゴールは、この世での成功ではなく、神の国における永遠の安息に入ることです。 安息日は、私たちを縛り付ける「重荷」ではありません。主イエスが「安息日は、人のために定められた」と言われたように、これは私たちの自由と解放を祝う日です。現代において、この日を聖別して守り続けるには、時に忍耐や工夫、信仰の決断が必要かもしれません。しかし、ここには仕事や趣味では決して得られない、真の命の糧があります。 この新しい週も、主が共にいてくださることを確信しましょう。日曜日に受けた御言葉の光を携え、他の六日間もまた「主を覚える歩み」とさせていただけますように。私たちが喜びをもってこの「主の日」を聖別し、永遠の安息へと向かう旅路を、互いに励まし合いながら進んでまいりましょう。