Ⅰ:ペトロの質問
今日の箇所でペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と質問しました。
この質問に対して、ユダヤ教のラビ(教師)たちは「三回まで」と教えました。またペトロは、そのラビたちの「三回」の倍以上の「七回」という数字を挙げています。
ところが主イエスは、ペトロの問いに対して「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」とお答えになりました。「何回目か」などといちいち数えたりしないで「何度でも、心から相手を赦しなさい」これが主イエスの答えです。この主イエスの答えは、私たちには到底不可能なことを要求されていると言わざるをえません。そして私たちがそう考えるように、ペトロもまた「主よ、そんなこと出来るわけがありません」と思ったのではないでしょうか。そのペトロに対して主イエスが語られたのが、23節以下にあるたとえ話です。
Ⅱ:誰かを赦すことの困難さ
恐らく、長く教会に通っておられる方であれば、今日のこのたとえ話が意味するところをすぐに理解することが出来るでしょう。すなわち、膨大な額の負債を抱えた家来とは、私たちです。そして、家来を赦した寛大な王とは、天の父なる神のことです。神は、私たちが神に対して負っている罪の負債を、御子キリストの命と言う代価を支払って帳消しにしてくださったのです。そしてだからこそ、キリストによって罪の負債を許された者は、自らも誰かの罪をも赦さなければならない、今日のたとえ話が語っているのはその事です。
そして、そのことを私たちは、頭の中では重々承知しています。ところがその言葉を、私たちの目の前にいる、私たちを傷つけ、苦しめ、大切なものを奪っていった誰かを心から赦しなさいという命令として聞いた途端に、私たちはその言葉に従うことに非常に困難になるのです。
なぜなら私たちにとって「誰かを赦す」ということは、自分が相手から受けた損失や痛みに目をつぶって、相手に対する非難や怒りの感情をぐっと飲み込んで「我慢」することだからです。一度や二度であれば、私たちにも怒りを我慢して、「相手を赦す」ことが出来るかもしれません。しかし、何度も裏切られ続ければ、私たち我慢にはやがて限界が来て、赦すことが出来なくなるのです。
Ⅲ:真の赦しとは何か
しかし主イエスが考える「赦し」は、相手から受けた損失を我慢して怒りを押し殺すことではありません。今日のたとえ話で、王が負債を肩代わりしてまで家来を赦そうとしたのは、この家来に一万タラントン以上の価値を見い出していたからです。一万タラントンの損害を背負ってでも、この家来との関係性を失いたくないと考えたのです。聖書の言う「赦し」とは、自分が受けた損失よりもより大きな価値を相手との愛の関係に見い出すことです。そして、損害を償わせて相手との関係を失うよりも、きずなを優先させることです。
すなわち「赦し」とは、その人に価値を見出して「愛する」ということであって、そうであれば、誰かを「愛する」ということについて「何回まで」と回数制限する必要はありません。「人を赦す」ということは、何かを失って「損をする」ことでも、それを「我慢する」ことでもなく、真実の友との交わりを得ることが出来る恵みの機会なののです。そして、今日のたとえ話で、仲間を赦さなかった家来は、自らに王が示した深い愛と憐れみに気が付かず、彼を憐れむために王が払った犠牲に対して何の痛みも覚えませんでした。そこに無慈悲であるという事以上に深刻な罪があるのです。
罪とは、目に見える一つ一つの悪事だけではなく、この家来のように、自分に対して向けられている神の深い愛を知ろうとしないことです。そして、神の深い愛に対して喜びや感謝を持たず、神が払われた犠牲にも何の痛みも覚えないこと、それこそが神に背を向けて生きている私たち人間が抱えている深刻な罪なのです。
Ⅳ:愛と赦しへ一歩踏み出す
神は、私たちが自分の力では到底贖いきれない罪の負債を、イエス・キリストの十字架によってご自身が肩代わりし、私たちの罪を帳消しにしてくださいました。それは私たちが正しいから、救う価値がある存在だからではなく、神が私たちにご自分の御子以上の価値を見出して、私たちを憐れんでくださった(愛してくださった)からです。この私たちの罪を何度でも、心から赦してくださる神の愛と、その神の愛の表れであるイエス・キリストというお方を知ることからしか、私たちが人を赦すことの出来る道は開けないのです。
私たちはしかし、そのような神の愛を受けながらも、なおも人を赦すことが出来ずに、誰かを憎み、怒りを燃やして互いに傷つけあってしまう、愚かで罪深い者です。しかし神は、そのように人を赦すことも、愛することも出来ない私たちに対する怒りを必死に我慢して、私たちを赦されたのではなくて、その愚かな私たちを失うことに対して、はらわたがちぎれるような深い憐れみと愛を抱かれて、その私たちに対する愛の故に私たちを何度でも、心から赦してくださるのです。ここに愛があります。
その愛に生かされている私たちは、目の前にいる誰かを、神に愛され赦された価値ある存在として大切にし、その相手を何度でも、心から赦し、受け入れる以外に、選択すべき道はないのです。それは、今なお罪人である私たちにとって困難な道かも知れませんが、しかし不可能な道ではありません。
イエス・キリストを信じて、神との和解と平和を得た私たちは、今もうすでに、その神の愛の道を歩み始めているからです。いつの日か私たちは、キリストにあって全ての人と真の和解を得ることが出来るのです。その日を目指して、私たちは今日も私たちの罪を、何度でも心から赦してくださったキリストの十字架と、そこに示された神の愛に目を上げようではありませんか。