1. 繰り返される「見る」という行為
イースター(復活祭)は、主イエス・キリストが死の中から甦られたことをお祝いする日です。しかし、今朝の聖書箇所が描いているのは、復活された主ご自身のお姿ではなく、弟子たちが直面した「空の墓」という驚くべき光景です。
この箇所には「見た」という言葉が何度も繰り返されています。 最初はマグダラのマリアです。彼女は日曜日の朝早く、墓の入り口の石が取りのけられているのを見ました。次に、知らせを聞いて駆けつけた「もう一人の弟子」が墓の外から中を覗き込み、遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるのを見ました。そして遅れて到着したペトロが墓の中に入り、遺体の頭を包んでいた覆いが、亜麻布とは別の場所に丸めて置かれているのをじっくりと見ました。
2. 三つの異なる「見る」の深さ
日本語ではどれも「見た」と訳されていますが、ギリシャ語の原文では、弟子たちが信仰へと導かれるプロセスを反映するように、三つの異なるニュアンスの言葉が使い分けられています。
「ブレポー」: マリアともう一人の弟子が最初に使った言葉で、単に「肉の目で目視する」ことを意味します。彼らは目の前の異変に気づきましたが、まだ何が起こったのか理解できませんでした。
「セオレオー」: 墓に入ったペトロが使った言葉で、「時間をかけて観察・分析する」ことを意味します。彼は細かな状況を把握しましたが、なお復活を信じるには至りませんでした。
「エイドン」: 最後に墓に入った「もう一人の弟子」が使った言葉です。これは単なる目視ではなく、経験を通して本質を悟る「心の目で見る」ことを意味します。この弟子は、復活されたイエス様に直接お会いする前に、空の墓という状況を信仰の目で見ることによって「信じた」のです。主が仰った「見ないで信じる人は幸いである」という言葉を、最初の一歩として体現した姿がここにあります。
3. 信じるプロセスにある個人差と救い
聖書は、早く信じた弟子を褒め称え、時間がかかったペトロを不信仰だと責めることはしません。信仰へと導かれるスピードには個人差があります。 私たちも、キリストの復活を初めて聞いたとき、最初は「おとぎ話」のように感じたかもしれません。ある人は劇的な体験を通してすぐに目が開かれ、ある人は何年もかけてゆっくりと心に染み込むようにして信じるようになります。
大切なのは「早く信じること」ではなく、「確かに復活の主を信じる信仰へと導かれること」です。そして、その信仰を聖書の御言葉に照らして理解していくプロセスを、主は忍耐強く待っていてくださいます。
4. 「イエスが愛された弟子」とは誰か
この箇所で最初に復活を信じた弟子は、本名ではなく「イエスの愛された弟子」という匿名で呼ばれています。これは、彼が自分の功績を誇るためではなく、主から受けた愛への感謝を込めて名乗った呼び名です。同時に、彼が匿名であることには重要な意味があります。それは、この福音書を読む私たち一人一人が、自分をこの弟子に重ね合わせることができるようにするためです。「イエスの愛された弟子」とは、特定の誰かのことではなく、主の復活を信じる信仰を与えられた「私たちキリスト者すべて」を指しています。私たちが主の復活を信じることができるのは、私たちの能力や理解力によるのではありません。主イエスがまず私たちを愛し、招いてくださったからです。疑い深かったトマスも、時間がかかったペトロも、そして今日ここに集まった私たちも、皆、主の愛に包まれた「愛された弟子」なのです。
主イエスは、私たちがご自身の復活という大きな喜びにあずかることができるよう、今も働きかけてくださっています。 「空の墓」は、死が最後ではないこと、そして主が今も生きておられることの確かな証拠です。私たちはそれぞれ、信仰の歩みの異なる段階にいるかもしれませんが、主の愛という土台の上に立っていることに変わりはありません。 このイースターの朝、私たちを愛してやまない主が、私たちの信仰の目を開いてくださることを感謝して、「イエスが愛された弟子」の一人として、甦りの主と共に新しい歩みを始めていこうではありませんか。