1. 教会の誕生日
私たちは今朝、聖霊が弟子たちの上に注がれたペンテコステ(五旬節)の出来事を覚えて礼拝を守っています。この日は、しばしば「キリスト教会の誕生日」と呼ばれます。ペンテコステとは、「五十番目」「五十日目」という意味で、ユダヤ人にとって最も重要な祭りである「過越の祭」から数えて五十日目に行われる祭りでした。
過越の祭は、神がイスラエルをエジプトの奴隷から救い出したことを記念する祭りです。イエス・キリストは、この過越の小羊として、私たちの罪の贖いのためにご自分を捧げられました。そしてそのキリストの犠牲から五十日後に、聖霊が降臨し、新しい神の民の初穂(最初の実り)として教会が誕生しました。
イエスは復活後、天に昇られる前に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束されました(使徒1:8)。弟子たちは、イエス様の復活を目撃しただけでは証人になる力を持っておらず、この聖霊の力を受ける時を祈り待ち望んでいました。そしてペンテコステの朝、待ち望まれた聖霊がとうとう弟子たちの上に降ってこられました。
2. 聖霊降臨の二つのしるし
聖霊が弟子たちに降る際、二つの超自然的な現象が起こりました。これらは聖霊の姿そのものではなく、その力強い働きを象徴しています。
第一に「風のような音」です。「風」という言葉は、旧約聖書で神が人間に命を吹き込んだ「息」や「霊」と共通しており、聖霊の働きをしばしば象徴します。風が吹くことは、古いものが過ぎ去り、新しい出来事が起こる印象を与えます。人生に「新しい風が吹く」とは、それまでの古い自分とは違う、新しい自分に変えられ、新しい道が開けていく感覚です。そこでこのペンテコステの日に、聖霊の風が吹き付けたとき、弟子たちの人生に新しい風が吹き、彼らはこれまでとは違う新しい存在へと変えられました。
第二は「炎のような舌」です。
「炎」は、旧約聖書において神がご自身を示し、栄光を現される時の象徴です(燃える柴、神殿に満ちた炎など)。炎のような舌が弟子たち一人一人の上に留まったという現象は、旧約時代には幕屋や神殿という特別な場所にしか満たされなかった神様の栄光が、今や弟子たち一人一人に満ちるようになったことを示しています。キリストの体である教会に連なる私たち一人一人が、主の栄光が満ちる生きた神殿、聖霊の宮とされました。聖霊の風が古い私たちを吹き飛ばし、主の栄光の炎が私たちの罪や悪を焼き尽くし、私たちは聖霊なる神の力が注がれた新しい存在となったのです。
そのように聖霊の働きによってもたらされる変化は、単なる「心境の変化」に留まるものではありません。聖霊を注がれた私たちは、以前の私たちとは全く異なる、新しい存在に変えられているのです。
3. 教会の言葉、神の偉大な業を語る
では、聖霊に満たされた弟子たちに、具体的に何が起こったのでしょうか。
「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(4節)
当時、エルサレムには、世界各地に散らされた後、故郷に戻ってきていた様々な国や地域出身のユダヤ人がいました。彼らは、弟子たちが自分の出身地の言葉で「神の偉大な業」について話しているのを聞き、あっけにとられました。これは、教会の多様性の中の一致を示しています。私たちは皆、性格も価値観も経験もバラバラで、一人として同じ人はいません。時には同じ言葉で話していても、言葉が通じず、誤解が生じることもあります。しかし、私たちは、異なる違いを持ちながらも、同じ一人の救い主イエス・キリストを信じ、同じ聖霊を注がれています。そして、それぞれに与えられた異なる賜物を用いながらも、そこで語っている内容は、ただ一つの「神の偉大な業」(イエス・キリストの十字架と復活)です。
その教会の言葉は、それぞれの違いを持ちながら世に向かっては一つの声、イエス・キリストの福音を語る声となります。その多様な賜物ゆえに、教会の声を聞く人たち一人一人に合った言葉として届くのです。
4. 新しいイスラエルの誕生
ペトロの説教を聞いた三千人が洗礼を受け、最初の教会が誕生しましたが、その多くはユダヤ人、またはユダヤ教に改宗していた異邦人でした。ここに、真の神の民、新しいイスラエルの民が生まれました。
古いイスラエルとは、民族としてのユダヤ人、同じ血筋と言葉(ヘブライ語)を持ち、律法を拠り所とする人々のことです。それに対して、新しいイスラエルは、民族も言葉も慣習も異なりながら、キリストの御言葉と、そのキリストによって遣わされた同じ聖霊に満たされているという事実によって、一つのキリストの民となるのです。私たちが毎週守っている主の日の礼拝は、この新しい神の民が、様々な違いを持ちながらも同じ聖霊によって一つとされ、神の栄光を共に賛美する場です。
5. ペンテコステは毎週起こる
ペトロは、旧約聖書のヨエル書の預言を引用し、聖霊を注がれた新しい神の民に起こる変化を語りました。
「終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。」(17節)
「預言する」とは神の言葉を語ること、「幻を見る」とはヴィジョンが与えられること、「夢を見る」とは希望を持つことです。この旧約の預言は、二千年前のペンテコステに実現しました。そして、このペンテコステの出来事は、使徒言行録に記されているように、弟子たちが祈りと賛美を捧げるたびに、毎週この礼拝の場で起きているのです。私たちは日々の生活の中で疲れ果て、未来にヴィジョンを見通せず、希望を抱けないでいるかもしれません。しかし、教会という場所は、若者や老人が幻を見て、夢を見ることができるようになる場所です。辛く苦しい重荷を背負い、絶望している者が、明日に希望を抱くことができるようになる場所です。知恵や健康に関係なく、幼い子どもたちでさえも、聖霊の力によって神の偉大な業を語り、神の栄光を表すことができる場所です。
私たち新しい神の民は、今朝のこのペンテコステ礼拝を通して、聖霊の風を豊かに受け、聖霊の炎に心を満たされました。この新しいヴィジョンと希望に満ちた力をもって、今週一週間の歩みへと向かいましょう。