2025年08月10日 朝の礼拝「真実の友となるために」

問い合わせ

日本キリスト改革派 恵那キリスト教会のホームページへ戻る

2025年08月10日 朝の礼拝「真実の友となるために」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章15節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 18章15節~20節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:教会の誰かが罪を犯したとき
 このマタイ18章は主イエスが「天の国の交わり」について語られた説教がまとめられています。その中で主イエスは、一匹の迷い出た一匹と、その羊をどこまでも探しに行かれる羊飼いのたとえを語られました。そこで私たちはこのたとえを通して、自分がそういう神のもとから迷い出た一匹の愚かな羊であるということを知ると同時に、教会の兄弟姉妹もまた、キリストが命がけで群れへと連れ戻された大切な羊であるということを覚える必要があります。ですから、教会の中にいる様々な弱さを抱えている者を軽んじたり、教会の交わりから排除することは神のみ心に叶わない事です。
 しかしそれは、相手の主張を何でも受け入れるということではありませんし、相手の罪を一切咎めないという事でもありません。相手の罪を見ないふりをすることは、聖書が教える「愛」の姿とは最も遠いものです。もし教会の中で罪を犯している人がいたら、罪を正して悔い改めへと導くことは教会の責任なのです。ただしそこでは、充分な思慮深さと配慮が求められることになります。そこで主イエスは今日の箇所で、教会の中で罪を犯した相手に対してどのように対処すべきかについて、非常に具体的な例を述べて説明しておられます。

Ⅱ:「裁く」ためではなく、「赦す」ために
 そこでキリストの弟子同士でトラブルが起こった場合、まず「行って二人だけのところで忠告しなさい」と勧めています。それは相手の罪を不必要に公にしないことによって、相手が悔い改めへと導かれやすくするためにするためです(この原則は、すべてのケースに当てはまる訳ではありません)。
しかし、当事者間の話し合いで問題が解決しない場合は、次の段階へと移行して「ほかに一人か二人、一緒に連れて行」って、罪を悔い改めるように説得します。そして、これらの手段を経ても相手が罪を悔い改めようとしない場合には、いよいよ第三の手段として「教会に申し出る」ことになります。そして、もしその相手が教会の勧告そも受け入れないのであれば、その時は「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」つまり教会の外の人と同じように扱いなさい、と言われています。
 そして18節で主イエスは「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と述べておられます。この「つなぐ」とか「解く」という表現は、相手に対して罪を宣告したり、反対に赦しを宣告することが出来る権能のことです。しかしそれは、誰かを罪に定めて永遠の裁きを降すためではなく、あくまで罪を犯した人を悔い改めへと導いて「赦す」ための権能なのです。教会は罪人を裁く場所ではなく、赦しと和解のために神が与えてくださった場所です。教会は誰であれ、神に代わって永遠の火の裁きへと突き落とす権威は与えられていないのです。

Ⅲ:誰かのために心合わせて祈るなら
 今日の箇所で主イエスが語っておられる教えは、罪を犯した者に罰を与えるための規則ではなく、罪を犯して教会から迷い出た者を、もう一度「兄弟として得る」ための教えです。罪人に対して、私たちが忍耐強く罪を悔い改めるように働きかける中で、もしその人が自らの罪を認めて、悔い改めることが出来たなら、その時私たちは、真の「兄弟姉妹」「友」を得たことになるのです。
もし仮に、相手が私たちの語る言葉に耳を傾けようとせず、自らの罪を悔い改めようとしない時にも、そこでなお私たちに出来ることがあります。それは私たちがその人のために心を一つにして祈るということです。ここで大切なのは、一人ではなく、二人以上が心を合わせて祈るということです。もちろん私たちが個人で祈るということも大事なことです。しかし、二人以上が共に心を合わせて祈る時に、そこにキリストが共におられ、そしてそこに教会の交わりが生まれるのです。その主の執り成しの祈りがあるが故に、私たちはたとえ何度過ちを犯しても、何度でも「やり直す」ことが出来るのです。そのための「赦しと和解の場所」が教会という場所です。そこにこそ他の共同体にはない、教会だけが持っている特別な恵みがあるのです。
 
Ⅳ:誰かの友となるために
 恵那教会の今年の教会目標は「共に礼拝をささげよう、友となって生きよう」です。そしてその「友となる」具体的な方法が、今日の御言葉に示されているのが「友のために心を合わせて祈る」ことです。一緒にお茶を飲んだり、食事をすることも教会の大切な交わりです。しかし、教会の交わりの中心は、互いが互いを覚えて、心合わせて祈ることにこそあるのです。その祈りは単なる気休めではなく、私たちの現実を変え、周囲の人々や自分自身に具体的な変化をもたらす力があります。それは信仰者にしかできない、信仰者だけが持つ唯一無二の力なのです。そしていつの日か、皆さん自身が罪に苦しみ、信仰につまづきを覚えて迷い出てしまった時、その皆さんのために心合わせて祈る友が、教会にいることを、そしてその祈りの輪の中にキリストもおられることを思い出してください。

関連する説教を探す関連する説教を探す