Ⅰ:「小さな者」と「つまづき」
前回の箇所で主イエスは、「天の国で一番偉いのは誰か」という弟子たちの質問に対して、
一人の子どもを彼らの中に立たせると「この子どものように自分を低くする者が天の国で一番偉いのだ」とお答えになりました。しかし、この主イエスの言葉を聞いた後も、「自分達の中で誰か一番偉いのかという議論」は、たびたび弟子たちの間で持ち上がりました。そこで主イエスは続く6節で、教会において「小さな者」を「つまづかせる」ことの危険性を更に厳しい表現を用いて語っておられますが、そこで繰り返し出てくる「小さな者」と「つまづき」が今日の箇所の鍵言葉(キーワード)です。
最初の「小さな者」は、今日の箇所では「キリストの弟子全般」を指している言葉ですが、特に教会に貢献することが出来ない者や信仰の未成熟な信徒のことを指しています。そこで主イエスは、あえて弟子たちがギョッとするような大げさな表現を用いることによって、教会において「小さな者」を「つまづかせる」ことが、神のみ前に深刻な罪として覚えられているということを強く印象付けようとしておられるのです。あるいは、キリストの体なる教会の中にいる弱く力のない者を教会の交わりから遠ざけることは、自分の手や足を切り捨てるのと同じくらい痛みを伴うことなのです。
Ⅱ:教会の中にあるつまづき
そしてここには今日の箇所に繰り返し出てくる、もう一つの鍵言葉があります。それが「つまづき」という言葉です。この言葉は「スカンダロン」というギリシャ語で、英語の「スキャンダル」という言葉の語源にもなった言葉です。あるいは動詞の「つまづかせる」という表現は「スカンダリゾー」という言葉ですが、これは「転倒させる」とか「転ばせる」という意味の言葉です。そこで主イエスが「世は人をつまずかせるから不幸だ」と言われていますように、やがて弟子たちは主イエスがユダヤ人に捕らえられて、ローマ帝国に引き渡されると、皆主イエスを捨てて逃げ出していまいました。そのように、世は往々にして私たちを「つまづかせる」のです。
しかし、現代の教会において、この言葉が最も多く用いられるのは、むしろ教会の中で起こる「つまづき」に対してです。実に教会には、私たちを信仰から離れさせ、あるいは教会の交わりから遠ざける、そういう「つまづき」があちらこちらに存在しています。互いが互いを誤解し、傷つけあい、つまづかせ合うことが起こり得る。それが教会という場所の現実の姿なのではないでしょうか。
Ⅲ:この愚かな羊をも
そこで10節で主イエスは改めて、『これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。』と警告されます。そして、これらの教えの総括として「迷い出た羊のたとえ」を語られました。このお話の「群れから迷い出た羊」というのは、それはつまり羊飼いの言うことを聞かなかった、不従順で愚かな羊です。その愚かな一匹の羊のために、迷い出なかった残りの九十九匹を危険にさらすということは全く愚かな行為です。九十九匹の羊の安全を守るためには愚かな羊一匹を犠牲にすることはやむを得ない、それがこの世の価値観です。しかし、今日のこのたとえ話では、他の九十九匹を犠牲にする価値のない愚かな羊のために、この羊飼いは自らの全てを捧げ尽くそうとするのです。今日のこのたとえ話は、迷い出た愚かな羊の話であると同時に、その羊をどこまでも探しに行こうとする「愚かな羊飼いの話」でもあるのです。
そして、この羊飼いとは、神の御子の栄光を棄てて、私たちを救うためにこの世界に来られたイエス・キリストのことです。そして自分が賢くて従順な九十九匹の羊ではなくて、神に逆らい、神のもとから迷い出た一匹の愚かな羊であると気付くこと、それが「子供のように自分を低くする」ということなのです。すぐに心に怒りや不満を抱き、人の成功や能力を妬み、自分より弱い立場のものを軽んじてつまづかせてしまう、私たちはそういう「愚かな一匹の羊」に過ぎません。そしてだからこそ、私たちにはキリスト者と呼ばれる資格があるのです。この愚かな私をしかし、他の九十九匹を置いてでも探しに行くほどに、それほどまでにこの私を愛し、私と言う存在に価値を見出してくださった、その神の愛、神の心の故に、私は自分が今確かにその神の救いに与っていると確信することが出来るのです。