2025年07月27日 朝の礼拝「自由の神」
- 日付
- 説教
- 堂所大嗣 牧師
- 聖書 出エジプト記 20章7節
20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 20章7節
Ⅰ:古代における祈りとイスラエルの民
今朝取り上げるのは、第三戒「主の名をみだりにとなえてはならない」です。この第三戒が直接的に禁じている具体的な中身として、古代の「祈り」を挙げることが出来ます。古代において名前はその人の本質と結びついており、それゆえ神に名前をつけたり、その名を呪文のように繰り返し唱えることによって、その神を支配することが出来るという思想がありました。これからイスラエルが入って行こうとしている約束の地にも、そういう魔術的な宗教が数多く存在していたのです。そこで神は第三戒を通して、あなたがたは約束の地に住むにあたってそのような異教徒の祈りに倣ってはならないと命じられたのです。
神の名前と聞いて私たちが思い浮かべるのは、出エジプト記3章に登場する「わたしはある(ヤハウェ)」という神の名前ではないでしょうか。しかし古代のユダヤ人は、この神の名前を口にすることを極端に恐れたため、この「ヤハウェ」というヘブライ語から母音を取り除いてしまいました。その結果、今となってはその正しい読み方が分からなくなってしまったのです。
Ⅱ:自由の神
しかし、今日の第三戒で神はそのように、ご自分の名前を“まったく”口にしてはならないと命じられたのではありません(20章24節)。第三戒で禁じてられているのは、あくまで神の名前を「みだりに用いること」です。では、神の名を「みだりに唱える」とはどういう事でしょうか。それは(異邦人の祈りの例からも明らかなように)神の名前を自分の利益のために用いようとすることです。そのように神とその名前に対する相応しい敬意や畏れを欠くことが「神の名をみだりに唱える」ということです。
神がモーセに答えた「わたしはある」という言葉の解釈の一つに「私は自分があろうとするものとしてある」というものがあります。つまり、神の名を知ることによって神から祝福を引き出そうとするモーセに対して、神はご自分が「全く自由な存在、自由な神である」ということを「わたしはある」という名によって宣言しておられるのです。この「神を支配し、コントロールしようとする」誘惑は、私たちも常にさらされている誘惑です。私たちにとって理想の神とは、私たちが何か試練に遭遇して助けを求めた時には、すぐにそれに応えて問題を解決して正しい答えを教えてくれる、そういう「便利で使い勝手の良い神」です。しかしそのように、私たちの願いや思いに従って、私たちの思う通りに行動してくれる神に何が出来るでしょうか。そのような私たちの願いや思いに収まってしまう神であれば、その神には、私たちを新しく造り変える力も、罪から解放して新しい生き方へ導く力もありません。けれども、聖書の神ははっきりと「私は何者にも縛られず、支配されず、自らの意志に従って行動する自由な神である」と言われるのです。そしてそのご自分の自由を束縛し、支配しようとする者に対しては「必ず罰せずにはおかない」と宣言されるのです。
Ⅲ:罪人を憐れむ神の自由
では、この自由の神を前にして私たちは、旧約の民と同じように神の怒りを恐れて、その名前を口にしないように黙っているべきなのでしょうか。いやそうではありません。この「わたしはある」という神の名前には、もう一つ別の解釈があります。それは神がモーセに語られた「わたしはあなたと共にある」という言葉の短縮形であるという解釈です。神は全く自由な神であると同時に、その自由において私たちを憐れみ、ご自分の意志において私たちと共にいてくださる神でもあるのです。
そしてその「神の自由な憐れみ」を良く表している御言葉が、この同じ出エジプト記33章19節の「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」という言葉です。新約聖書でパウロはこの言葉を引用して、救いが人間の意志や努力によるものではなくではなく、神の自由な憐れみによるものであるということを説いています。事実、神は御子の十字架の贖いという、私たち人間の創造を遥かに超えた驚くべき方法をもって私たち罪人を憐れんでくださいました。私たちが御子を十字架につけてくださいと願ったからそうされたのではありません。神はまったくご自分の自由な意思によって、私たちに対する深い愛の故にそうされたのです。だからこそ、私たちは「こんな私にも確かに神の憐れみが注がれている」ということを信じることが出来るし、目の前にどんな試練が立ちはだかるとしても、その神の愛に信頼して忍耐することが出来るのです。
Ⅳ:喜びを持ってイエスのみ名を呼ぼう
十戒の第三戒は、主の名を呼ばないようにさせることが目的ではなく、私たちが真実の愛と敬意をもって、また喜びと感謝を持って神の名前を呼ぶことを教えているのです。神の怒りや罰を恐れて口を塞ぐのではなく、私たちのために神の怒りと裁きを一心に受けてくださったキリストが、今日も私たちと共にいてくださいます。そして、私たちのどんな小さな声にも、声なき叫びにも耳を傾けてそれを受け止めてくださる。そのキリストの名を持って呼び掛ける私たちの祈りは、決して虚しい呼びかけに終わることはありません。神はその私たちの祈りに、私たちの願いや思いを遥かに超えた深い愛と憐れみのみ心によって答えてくださるのです。今日も私たちはこの神の自由な愛と憐れみを信じて神を礼拝し、罪人であるこの私がキリストと一つにされていると確信して、その感謝と喜びを込めて主の名を呼ぶことが許されているのです。
