Ⅰ:弟子たちとイエスの会話
マタイ福音書には、主イエスが弟子たちに語られた「五大説教」と呼ばれる箇所がありますが、今日の18章から四番目の説教が始まります。その中心的なテーマは「天の国(教会)における交わり」についてです。その主イエスの説教の切欠は、弟子たちが「だれが天の国で一番偉いのでしょうか」と尋ねたことでした。しかしマルコ福音書では、この時弟子たちの間に「自分たちの内で一番偉いのは誰か」という議論が持ち上がっていたことが記されています。そう考えれば、今日の弟子たちの質問は、単なる一般的な興味や関心から出たものではありません。その質問の背後には、彼らの「妬み」や「嫉み」のようなドロドロとした人間関係が渦巻いていたのでしょう。するとこの質問を受けて主イエスは、一人の子どもを呼び寄せて弟子たちの真ん中に立たせると天の国において一番偉いのはこういう「子どものようになる人」なのだとお答えになりました。
Ⅱ:「子どものようになる」の意味
では、「子ども」とは一体どういう存在なのでしょうか。4節では主イエスご自身が「子どものようになる」とは、「自分を低くする」ことであると説明しておられます。古代の社会においては「子ども」は、戦いに参加することも出来ず、働いて納税することもない非生産的な存在として、社会的地位において低く見られている存在でした。またユダヤにおいては律法の戒めを守ることが出来ない未熟な存在とも見られていました。弟子たちにとっても「子ども」はそのような無力で無価値な存在だったのでしょう。そこで主イエスは、あえてその人々が価値を見出さない「子ども」を指さして、天の国ではこういう子どものように無力で役に立たない者が最も偉い者となるのだ、と言われるのです。
Ⅲ:キリスト者の謙そん
いやそれだけでなく、子どものように自分を低くする者でなければ、誰も天の国に入ることは出来ないとまで言われるのです。「自分を低くする」とは日本語で言えば「へりくだる」とか「謙そんする」という言葉に言い換えられます。しかし、日本語の「へりくだる」「謙そん」が、他者に対して自分を卑下したり、控えめにふるまう「人間関係を円滑に勧めるためのマナー」のことを指しています。そこで教会における謙そんもまた、そういう世の「謙そん」と同じように、人間関係を円滑にするために「自分を低く控えめに見せる」という処世術になってしまうことがあるのではないでしょうか。
しかし、「子ども」は一生懸命に自分を低くしようとか、控えめに謙そんに振舞おうとは考えません。なぜなら、子どもはそのままの状態ですでに、親の庇護を受けなければ生きていけない弱い存在だからです。今日の箇所で主イエスもまた、弟子たちに「あなたがたもこの子どものように自分を低くして、無力な存在になりなさい」とは命じておられません。人間は本来、神のみ前には皆無力で無価値な存在です。神の愛と憐れみがなければ生きていくことの出来ない無力な存在なのであって、私たちはあえて自分を低くしよう、神の前に自分を弱く控えめに見せようとする必要はないのです。
Ⅳ:あなたは神み前に価値ある存在
キリスト者のへりくだりは、「自分はあの人より低くなっている」という他者との比較によって生まれるのではありません。神のみ前にただ一人の人間として立たされて、その神のみ前に「心を入れ替えて」自分が神の救いを必要とする全き罪人であると認めること。その無価値な私に差し伸べられている神の救いの御手を素直に受け取ること。それが「心を入れ替えて子どものようになる」ということであり、それこそが罪人が天の国に入るために必要なたった一つの資格なのです。
その私たちの謙そんとへりくだりは、ただ「自分は弱い無力な者である」と認めるだけでは終わりません。真の謙遜とは「自分は駄目だ」と否定することではありません。ましてや自分を無価値な者と決めつけて自分や自分の人生を傷つける事でもありません。我が子を愛する愛以上の愛で、この愚かな私を ―神を喜ばせるような善を何一つ行うことの出来ない、無力で無価値なこの私を―、認め、愛し、受け入れてくださる天の父なる神の愛を知り、自分を誇るのではなく、ただ神の愛に感謝して神をほめたたえて生きることがキリスト者の謙そんです。私たちは一人一人が皆、神に愛されている大切な存在です。自分がどんなに無力であっても、罪深くても、神に愛されているかけがえのない存在として、今日を生きる価値があるのです。たとえこの先皆さんの目の前に、どんなに辛く苦しい現実があるとしても、その事は忘れないでいただきたいのです。そして、その神の愛を知り、自分自身の存在を神にあって受け入れることが出来た時に、今度は私たち自身が「世の小さな隣人たちの友となって生きる」という新しい生き方への扉が開かれていくのです。