Ⅰ:神殿税を巡るイエスとペトロの会話
主イエスがガリラヤのカファルナウムに戻っておられた時、徴税人たちがペトロを訪れて「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と尋ねました。当時、ニ十歳以上のユダヤ人男性は神殿に毎年神殿税を納めることになっていました。が、一方でこの税を払うべきかについてユダヤ人の間でも意見がの違いがあったのです。主イエスがこれまで、この神殿税を納めておられたのかどうかはよく分かりません。しかし、ペトロはこの質問に対してはっきりと「納めます」と答えました。少なくとも彼自身は、神殿税を「納めるべきである」と考えていたということでしょう。
そこでペトロが家の中に戻ると、そのやり取りを聞いて主イエスは「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」とお尋ねになりました。そこでペトロが「他の人々からです」と答えると、改めて天の父なる神もご自分の子に対して義務を負わせないと述べて、神殿税に対する自らの認識を明らかにされたのです。
Ⅱ:キリスト者の「自由」と「愛」
しかしそれは単に、この神殿税のことだけを言っておられるのではではありません。主イエスはご自身が「神殿よりも偉大な者」な「神の御子」であって、この世の人々が作った慣習はもちろん、旧約の律法に書かれている義務からも自由な存在であるということを明らかにしておられるのです。そしてこの「自由」という行動原理は主イエスはもちろん、このお方を信じるキリスト者の行動原理でもあるのです。
その一つの具体的で分かりやすい例が、教会で捧げられる献金です。献金は決して教会の規則ではありません。あくまでその人の自由な意志によってなされるということが大原則です。献金だけでなく、奉仕も、あるいは礼拝を守るということも含めて、教会の営みは誰かから強制されてするのではなくて、本人の自由な意思で、喜びや感謝を持ってなされる時に意味を持つのです。
それでは、私たちは何も、日曜日にこうして教会に集まって礼拝をする必要はないし、献金を捧げる必要もないのではないでしょうか。あるいはもっと極論して言えば、「罪を犯す自由」さえ持っていると言う事も出来るのではないでしょうか。しかし、今日の箇所で主イエスは、キリスト者のもう一つの行動原理を明らかにしておられます。それが「人々をつまづかせないようにする」ということです。主イエスはそのために、本来納める義務のない神殿税を納めることに、この時同意したのです。もちろん主イエスは、ご自分の救い主としての働きの中心的な事柄については、相手が誰であろうと決して妥協することはありませんでした。しかし、救いや信仰の中心に関わらない周辺的な事柄については「隣人を躓かせないようにする」という原理に基づいて柔軟な判断をされたのです。
Ⅲ:もう一つの行動原理
一方で、私たちの現実の教会生活、信仰生活において、何が信仰の中心に属する事柄で、何が周辺的な事柄なのかを判断するのはそれほど簡単ではありません。そこに杓子定規な規準を当てはめて一律的に判断することは出来ません。目の前にいる人を一人の人間として見つめ、尊重しながら、なおそこで信仰的に譲れないもの、妥協すべきでないものについて、私たちは真剣に御言葉と対話しながら、考え続けなければならないのです。
そこで、その「自由と愛の境界線」をどのように考えるかについて、キリストご自身が教えておられる、もう一つの大切な行動原理があります。それが「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」にある「神のみ心に従う」という原則です(ヨハネ6:38)。
キリストの自由は「父なる神の意志を行う自由」です。キリストの愛は(人間的な親切心や同情心からくるのではなく)「天の父なる神の愛のみ心に従う」事に根差した愛なのです。主イエスこそ誰にもおもねることもなく、また人の声や評価に惑わされることもない、この地上の生涯を自由に生き、行動する権威と力を持っておられるお方でした。しかし、その神の御子が十字架のみ苦しみを前にして「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られながら、最後の十字架の死に至るまで、神のみ心に従い抜くことを、ご自分の自由な意思において選んでくださったのです。そしてそのキリストの自由と愛の故に、私たち罪人の赦しと救いの道が開かれていったのです。ご自分の全き自由を、罪人として滅びるべき私たちを救うために用いてくださった、そのキリストの姿にこそ、神の全き愛の姿があるのです。
Ⅳ:真の自由と愛が支配する教会を目指して
私たちキリスト者に与えられている自由とは、このキリストの十字架に根ざした自由です。それは心の赴くままに罪に耽ることの出来る自由ではなく、自らの自由な意志で神を愛し、神に仕えることが出来る自由であり、感情によっては愛し得ない人をキリストにあって自分自身のように愛する自由なのです。キリストの十字架の愛だけが、私たちにそのような本物の自由と愛を与えることが出来るのです。教会がそのように、強いられてではなく、心から喜んで神に仕える群れになるように、また自らの自由な意思で隣人を愛する教会となるように、そしてキリストにある真の自由と愛が支配する場所となるように、これからも共に神のみ心を求め続けようではありませんか。