Ⅰ:信仰のない、よこしまな時代
今日の箇所で主イエスは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と述べてられます。事の発端は、山を降りられた主イエスのもとに一人の父親が近づいて来て、、てんかんの病(悪霊)に侵されて苦しんでいる息子の癒しを求めたという出来事でした。しかし、父親が訪ねて来た時、主イエスは不在であったため、代わりに弟子たちが子どもから悪霊を追い出そうとしたのです。ところが彼らは子どもから悪霊を追い出すことが出来なかったのです。そこで、その顛末をお聞きになった主イエスが言われたのが、冒頭の言葉です。
この言葉は、一見すると悪霊の追い出しに失敗した弟子たちを叱っておられるようにも聞こえます。しかし、「時代」という言葉は「世代」と訳すことも出来、それは神の民でありながら救い主である自らを信じようとしないユダヤ人たちに対する非難の言葉であると理解出来ます。もちろんそれは、弟子たちが何の責任も負わないという事ではありません。彼らもまたユダヤ人の一員として、何より神の国を宣べ伝えるために召し出された者として、この「時代」の在り方に彼らもまた責任を負っているのです。
Ⅱ:小さな信仰
そこで弟子たちから悪霊を追い出すことが出来なかった理由について尋ねられると「、信仰が薄いからだ。」と説明しています。「信仰が薄い」は、直訳すれば「信仰が小さい」という言葉です。ところが、続けて主イエスは「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば・・・そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」と述べておられてます。一体「信仰が小さい」とか「からし種一粒の信仰」とは、どのような信仰の在り方を指しているのでしょうか。
これまで主イエスは、弟子たちが目の前にある現実や試練に対する恐れに囚われて、主イエスに対する信頼が揺らいだ時に「信仰薄い者たちよ」と言葉を投げ掛けています。小さい信仰とは、目の前の現実に恐れをなし、神の権威に対して疑いを抱くことです。しかし、今日の箇所の弟子たちはむしろ、子どもから簡単に悪霊を追い出すことが出来ると高を括っていたのではないでしょうか。彼らはこれまでにも何度も悪霊を追い出し、人々の病を癒すことに成功していましあ。そこで、その権威と力が、主イエスから授けられた権威であるということを忘れてしまっていたのです。その「これくらいのことは自分で出来る」と言って神の助けを謙そんに求めようとしない信仰もまた「小さな信仰」に他なりません。
Ⅲ:からし種一粒の信仰
もう一つの「からし種」は、「目で見分けられるものの中の最小のもの」を表わす慣用表現です。続く「山を動かす」という言葉は、「あり得ないことが現実になる」ことを意味する比喩です。主イエスはここで、たとえそれがからし種ほどの信仰であったとしても、常識では不可能と思えるようなことを成し遂げることが出来る力を持っていると教えておられるのです。しかしこの主イエスの言葉は、私たちに本物の信仰があれば、不可能を可能にするスーパーマンのような存在になれると言っている訳ではありません。「何でもお出来になる」のは、私たちではなく「神」です。ただその神の力に信頼し、神の助けを願い求め続ける時に「私たちに出来ない事は何もない」のです。主イエスが「信仰のない、よこしまな時代」と嘆かれた時代は、神と、神が遣わされた真の神の御子に信頼し、救いを求めようとしない「不信仰な時代」であったのです。
ところが、そのように人々の不信仰を嘆かれたすぐ後で、主イエスは二度目の受難予告を弟子たちに語っておられます。不信仰な時代を生きる者を見捨てるどころか、その彼らのために十字架に赴くことを改めて宣言しておられるのです。そしてその言葉通り、主イエスはその不信仰で邪な世を救うために、自らの神の御子としての栄光を捨てて山を降り、最後はご自分の命まで十字架で捧げてくださったのです。この十字架の主に向けられている時に、私たちの信仰には力があります。「からし種一粒の信仰」とはこの、自らを頼みとせず、この十字架の主に信頼して、このお方の助けを忍耐強く求め続ける信仰です。
Ⅳ:キリストの愛に根ざした信仰には力がある
大切なのは、私たちの信仰が大きいか小さいかということではありません。大切なのは、からし種一粒ほどの信仰さえ持たない私たちを、キリストは愛してくださっているという事実です。皆さんの目の前にある山を動かすことが出来るのは、皆さん自身の信仰の大きさや立派さではなく、十字架でご自分の命を投げ出すほどの愛で私たちを愛し抜いてくださったキリストだけが、山を動かし、私たちを死から命へと映すことが出来る唯一のお方なのです。自らを頼みとせず、また他のどんな神々も、この世の力をも頼みとせず、ただキリストだけを信じ、キリストにのみ信頼し続ける信仰、それこそが、この信仰なきこの時代をキリスト者として生きる私たちの「からし種一粒」の信仰です。そしてそのキリストの愛に根差した信仰には、この不信仰な時代を神の国へと変え、私たちを、また私たちの周囲の人々の生き方を変えていくことが出来る力があるのです。