Ⅰ:山上の変貌の出来事
ある時主イエスは、弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山へ登られました。すると突然、主イエスの顔が太陽のように輝き出して、着ていた衣服が光の衣を纏っているかのように白く変わったのです。しかもそこにモーセとエリヤが現れて主イエスと話し始めるという驚くべき光景を弟子たちは目撃しました。そこで、この驚くべき光景を目撃したペトロは、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と口を挟みます。
ここで「仮小屋」と訳されている言葉は、旧約聖書のギリシャ語訳聖書では「幕屋」の訳語としても用いられる言葉です。ペトロはこの時、幕屋を建てて、その栄光に輝くイエス様の御姿を自分の手元に留めておきたい、そして自分が望んだときにいつでもそれを見る事が出来るようにしておきたいと願ったのです。しかし、そのペトロの申し出が終わらないうちに雲が主イエスらを覆い隠してしまいます。そして弟子たちの耳に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神御自身の声が聞こえてきました。これから十字架へ向かおうとしている主イエスこそが、私が選んだ、私の御心を成し遂げる者であるということを明らかにされた上で、この者に聞いて従うことが弟子のなすべきことであるとお示しになったのです。
Ⅱ:神の御子の栄光を垣間見る
弟子たちが、目の前の出来事に恐れを抱いてひれ伏していると、いつの間にか雲もモーセらも消えていて、普段通りの主イエスのお姿だけがありました。そして主イエスは弟子たちに近づいて手を触れられて「起きなさい。恐れる事はない」と声を掛けられました。この7節の「近づく」というギリシャ語は多くの場合、人々の方から主イエスに近づくという場面で用いられています。しかしこの福音書の中で今日の箇所ともう一つだけ、主イエスの方から弟子たちへ近づくという文脈で用いている箇所があります。それがマタイ28章18節のいわゆる大宣教命令と呼ばれる箇所です。それはこの山上の変貌という出来事が、十字架から復活された主イエスの栄光と密接に結びついている事を読者に示すためでしょう。
主イエスに従う道には、確かに苦しみや痛みや死が伴います。けれども十字架の道は、決してそれで終りなのではありません。キリストに従う十字架の道を行く者は、やがて「人の子が父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」お姿を見ることになる、そしてその御子の栄光に共に与るものとなると、主イエスは約束しておられるのです。主イエスの復活と昇天は、そのことの保証でもあるのです。そして今日の山上の出来事で弟子たちは、彼らがやがて目撃することになる復活のキリストの栄光を垣間見たのです。それはやがて世の終わりに来られる再臨のキリストの栄光とも繋がっています。
Ⅲ.礼拝の山を主と共に降りる
それでは、今の私たちにとって、主イエスの栄光のお姿を目撃することが出来る場所とはどこでしょうか。それはこの主の日の礼拝という場所です。礼拝こそ、私たちが毎週世を離れて主イエスの栄光を仰ぎ見るために登って来る山なのです。礼拝においてみ言葉を通してキリストが神の独り子である事を示されて、このお方の栄光が私たちの心の内に光り輝くという体験をするのです。
けれども私たちは、その礼拝の場に留まり続けることは出来ません。礼拝が終われば、この会堂を出て(山を降りて)それぞれの日常へと戻っていかなければなりません。その私たちが向かう世界は、主イエスが「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆かれた世界です。そして私たちの日常の生活もまた様々な現実の問題が立ちはだかる場所です。そういう辛い現実、光輝く主の栄光も、神々しい神の御子の姿も見い出すことが出来ない現実へと私たちは戻って行かなければならないのです。
もし今、私たちの現実の中に、栄光に輝く主イエスの姿が見えないとしても、だからと言って主イエスがそこにおられないのではありません。主イエスは、困難や試練に満ちた十字架の道に私たちを一人で歩かせることはなさいません。このお方はご自分の神の御子の栄光を捨てて私たちと共に山を降り、険しい荒野へと共に向かってくださるのです。今朝の箇所においても主イエスは、神の御子の栄光のお姿に留まろうとはせず、いつも通りのお姿で弟子たちと共に再び山を降りられのです。主イエスは、人々が洗礼者ヨハネを退けたように、ご自分もまた人々から苦しめられ、退けられるということを知っておられました。それを承知の上で、それでもその罪人の罪を贖うために主イエスは、弟子たちと共に山を降りて下さったのです。
Ⅳ.十字架の主の栄光を見上げて
そして、その十字架において主イエスは、太陽のように輝く御顔の代わりに、血で汚れた顔に茨の冠を被せられました。光輝く栄光の衣を纏う代わりに、衣服をはぎ取られて裸にされ、さらし者にされました。そしてその両側にはモーセとエリヤではなく、二人の強盗が共に十字架に架けられました。そしてこの十字架の主イエスの姿こそ、父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と告げてくださった、真の世の救い主、生ける神の御子の姿なのです。
そしてこの、私たちの罪の刑罰の身代わりとなられて、傷つき、みすぼらしく弱々しい姿で十字架に架かって下さったお方をこそ神の御子と信じ従っていくことこそ、私たちが自分を捨て、自分の十字架を背負っていくことなのです。