Ⅰ:ペトロの誘惑
マタイ福音書には、主イエスの受難予告が三度記されていますが、今日の箇所はその最初の受難予告になります。ところが、その主イエスの受難予告を聞いたペトロがわきへと連れ出すと、強い口調でいさめ始めたのです。するとペトロに対して主イエスは、『サタン、引き下がれ』という厳しい言葉をもってお答えになりました。「引き下がれ、サタン」という言葉は、マタイ4章で悪魔に対して言った「退け、サタン 」という言葉を思い起こさせます。荒野におけるサタンの誘惑の罠は、神のみ心と異なる、別の選択肢を示すということでした。皮肉にも弟子の一人であるペトロが、その悪魔と同じ誘惑の言葉を語って、主イエスを十字架の道から逸らせようとしたのです。ただし、荒野のサタンに対する命令が文字通り「わたしの前からいなくなれ」であったのに対して、ペトロに対する命令は直訳すれば「わたしの後ろに退け」という表現です。主イエスはここで、十字架へ向かおうとするご自分の前に割り込んで、その道から逸らせようとするペトロを本来のいるべき場所へ引き戻そうとされたのです。
Ⅱ:自分を捨て、自分の十字架を負う
そして24節以下で主イエスは改めて、ご自分の弟子となることについてお語りになりました。その主イエスが語られた弟子の心得の第一は「自分を捨てる(自己否定する)」ということです。そこで「自分を犠牲にする」ことを嫌う現代社会においては、この主イエスの言葉は素直に受け入れがたいのです。
そして弟子の心得の第二は「自分の十字架を背負う」ことですが、この言葉もまた否定的な印象を抱かせる言葉ではないかと思うのです。恐らく弟子たちにとってもこの「十字架」という言葉は、不吉な印象を抱かせたはずです。なぜなら、当時の人々にとって「十字架」は、ローマ帝国が犯罪者を死刑にするための処刑道具であり、「十字架を背負う」とは、その死刑囚が十字架を背負って処刑場まで歩かされるという慣習に由来する言葉だったからです。
しかし今聖書を読んでいる私たちは、主イエスがその十字架刑によってローマの罪人として殺されたことを知っています。そして主イエスの十字架の道が、弟子たちが期待していたような栄光や勝利に満ちた歩みではなく、恥と苦しみと死に満ちた苦難の道であったということを知っています。そして「自分を捨てて、キリストの後ろに従っていく」ということは、その主イエスが歩まれた苦しみと恥が待ち受けている道を、私たちも歩いていくと決断することなのです。そこでは、キリストが苦しまれたのと同じように、信仰ゆえに受ける非難や葛藤、苦しみや試練を避けて通ることは出来ません。
Ⅲ:キリスト者にとっての「自分の十字架」
たとえば同じ試練や不幸に見舞われても、神というお方を知らなければ「これも運命だ。仕方がない」と割り切ることも出来るかも知れませんし、「人生万事塞翁が馬だ」と楽観的になることも出来るかも知れません。しかし、聖書の神を知り、神が愛であるということを知ってしまった信仰者は、襲い掛かる試練や不幸をそんな風に簡単に割り切ることは出来ません。この世を支配しておられる神がいると信じるがゆえに「主よ何故ですか」と問い掛けずにはおられないのです。そして苦しみや不幸の意味に対する問いを抱えたまま生きて行かなければならないのです。そしてそれこそが、キリストに従う者が背負わなければならない「自分の十字架」なのではないでしょうか。それが具体的に何であるかは、人それぞれによって違います。しかしそれが何であるにせよ、キリストを信じてキリスト者となった以上、私たちは必ずそういう信仰の問いにぶつかってきたはずですし、そしてその信仰ゆえの傷や痛みを自分の十字架として今すでに背負っているはずです。
Ⅳ:ただひたすらにキリストを見つめて歩く
そのような苦難の道を一体誰が好き好んで歩きたいと思うでしょうか。「今日の主イエスの言葉はただの人間に過ぎない私たちにとってあまりにも重すぎるのではないか。」私たちはそう考えますし、恐らく弟子たちもそう感じたのではないでしょうか。しかしそこで彼らが、そして私たちが見落としてしまっている重要な事柄があります。
21節で主イエスは、確かにご自分の受難について語っておられます。しかしその言葉は、決して苦しみと死の予告では終わっていません。主イエスは最後に「三日目に復活することになっている」と語っておられるのです。しかしペトロは、その前の「多くの苦しみを受けて殺されなければならない」という言葉に心を奪われてしまったために、この「復活する」という言葉を聞く事が出来なかったのです。そしてそれは私たちも同じです。自分を捨て、十字架を負ってキリストの後に従おうとする時、そこには必ず信仰ゆえの苦しみや試練が待ち受けています。しかしだからと言って、キリストに従って歩く歩みは、苦しみや死で終わる希望のない道ではありません。その苦しみの先には真の命、永遠の命が用意されています。十字架の道は、死で終わる道ではなく命に至る道なのです。キリスト者とは自分の意志で十字架の道を切り開いく人のことではありません。キリストが私たちの罪の十字架を背負って歩いてくださったその道を、キリストのみ後に従って歩んで行く者。たとえ人からどんなに笑われても、非難されても、私たちには意味も目的も分からない苦難や試練が人生に立ち塞がるとしても、それでもただひたすらに、主イエスの後姿を見つめて、主イエスの道を歩んで行く者。それがキリスト者なのです。
私たちはきっとこれからも、自分を捨てることを拒んだり、自分の十字架の重さに耐えきれずに脇道に逸れてしまうことがあるでしょう。しかしその度毎に主イエスは、迷い出た私たちを「私の後ろに退きなさい」と呼び止めてくださり、もう一度、私たちがいるべき場所へと引き戻してくださいます。喜びの日にも、悲しみの日にも、いつどんな時でも私たちの前におられ、私たちの罪の十字架を背負って歩いておられるキリストをただひたすらに見つめ続けること、それが、この十字架の道を終わりまで歩き通すために必要なことなのです。