2025年05月25日 朝の礼拝「信仰とは闘うこと」

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2025年05月25日 朝の礼拝「信仰とは闘うこと」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 20章4節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 20章4節~6節

原稿のアイコンメッセージ

:十戒の区分の仕方
 先月は、十戒の第一戒が求めているのは、私たちが神との愛の交わりに生きることであるということを確認しました。しかしこの世には、私たちを神の愛から引き離そうとする敵が無数に存在します。信仰とは、その神の愛から引き離そうとする敵との「闘いに生きる」ことでもあるのです。今朝の「あなたはいかなる像も造ってはならない。」という第二戒は、そのことを教えてくれているのです。
 ではその、信仰の歩みにおいて私たちが闘わなければならない敵とは一体誰でしょうか。
 そのことを考える前に、十戒の区分の仕方について確認しておきたいと思います。十戒の区分けについては、同じキリスト教会の中でも3~6節を第一戒とするカトリックやルター派の立場と、正教会やそれ以外のプロテスタントの立場があります。
 キリスト教会の伝統から言えば、カトリックやルター派の十戒の分け方が元々の十戒の区分の仕方です。しかし宗教改革者ジャン・カルヴァンの流れを汲む改革派教会は、4~6節を第一戒の補足ではなく、独立した戒めとして理解し、偶像礼拝が持つ危険性と、それと意識的に闘うということを大切にしてきたのです。

Ⅱ:「自分のため」の神を造り出す
 信仰生活において、私たちが最も陥りやすい罪が、この「偶像礼拝」です。そのことは、イスラエルの民が最初に犯した律法違反が、この第二戒に対する違反であったということにも表れています(金の子牛事件)。
 新共同訳聖書では翻訳されていませんが、4節のもとの文章には「自分のために」という言葉が含まれています。聖書が禁じている偶像礼拝は、単に仏壇や仏像に手を合わせることだけではありません。自分にとって都合の良い、「自分のため」の神を造り出すことが、最も警戒しなければならない偶像礼拝の本質なのです。
 現代に生きる私たちにとって「自分のために」何かをするということは、それほど悪いとは思えないかも知れません。いわく「信仰とか神は、そもそも自分が心の平安や拠り所を得るためのもので、自分が安心出来るなら、目に見える像を拝んだり、祭壇に向かってお祈りしても、それほど目くじらを立てなくても良い。」と。
 しかし、ほんの小さなことに思えるような日常の中で、信仰の戦いに小さな敗北を繰り返していく間に、私たちは自分でも気が付かないうちに、いつの間にかサタンの手中に落ちてしまうかも知れません。もちろん、キリストは十字架においてすでにサタンに対して勝利を治めておられます。そして私たちはそのキリストに結ばれているのですから、必要以上にサタンの力を恐れる必要はありません。しかし、私たちにもいつか、重大な信仰の決断を迫られる場面がやって来るかも知れません。その時にサタンの攻撃に抵抗することが出来るように、世の偶像を用いて神の愛から引き離そうとするサタンの攻撃に対して無自覚であってはならないのです。

Ⅲ:御言葉によって自分の神の像を打ち砕かれる
 その意味で、第二戒は仏教とか神道といった他の宗教や、カトリックやルター派を批判するための戒めではありません。また第二戒で禁じられているのは、単に石や木で作った神の像を拝んだり、キリスト像や絵画を飾ることではありません。それは偶像礼拝の罪のほんの一部、氷山の一角にしか過ぎません。
 真の偶像礼拝の罪とは何か、それは、この世の自分の願いや思いを叶えてくれそうな何かと、真の神と取り替えることです。そして神ならざる者を神とし、それによって偽りの安心や満足を手に入れようとすることです。そうであれば、キリスト者もまた「偶像礼拝」の罪と決して無縁ではありません。私たちもまた「聖書の神」に「自分自身」を投影して、神を自分が望むような姿に限定し、支配しようとする罪の誘惑にさらされています。そしてついには、自分自身を「神」と同化させて自分を正当化し、自分が自分の神となって人生を支配しようとするのです。
 しかし、私たちがこの世界を創造したのではなく、私たちが神を生み出したのでもありません。神がこの世界を創造し、そして私たち一人一人に命をお与えになったのです。その真の神を、私たちが自分の願いや都合に押し込めておくことは出来ません。
 神は私たちの心の願望の投影などではなく、生きておられ、私たちの願いや思いを超えて、私たちの外側から働かれるお方です。私たちの内には無かった新しい言葉、愛と真理と知恵の言葉をもって、私たちに語りかけてくださるお方なのです。
 私たちが自らの願いに合うように「神」を変えようとするのではなく、神が上から語り掛けてくださる御言葉によって、自分勝手に作り出した「神の像」を打ち崩されて、私たちの方が変えられていくのです。主の日の礼拝とは、神の言葉によって自らの「神の像」を打ち砕かれて、まことの神の姿を示される場なのです。

Ⅳ:キリストがおられるなら
 そして、神はこの終りの時代にあって、人となられた神の御子イエス・キリストを通して、ご自分がどのようなお方であるかをお示しになられました。キリストを通して私たちは、私たちが頭で考え出した貧しい神ではなく、私たちの理解や想像を遥かに超えた愛で私たちを愛してくださる、真の神の愛を知ることが出来るのです。キリストにあって第二戒の言葉は、単なる禁止命令ではなく、喜びの福音となるのです。この生ける神の御子が世の終わりまでわたしと共にいると約束してくださっている。そして現に今、聖霊を通して私の内にいてくださるのです。そうであれば、私たちはもはや、目に見える像や祭壇を築いてそれによって安心を得る必要はないではないですか。イエス・キリストは今日も生きて、私たちと共にいてくださる。その聖書の約束こそ私たちの真の希望であり、喜びであり、命なのです。

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