Ⅰ:シモン・バルヨナ
ペトロの信仰告白を受けて主イエスは、『「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』と述べました。
シモンはペトロの本名です。また「バルヨナ」は「ヨナの息子」という意味の言葉です。ですから「シモン・バルヨナ」という呼び名は、ガリラヤ漁師ヨナの息子として生まれて、自身も漁師として生きてきた彼のそれまでの人生を象徴する名前です。主イエスはここで、そのヨナの子シモンに対して、全く新しい名前を与えようとしておられるのです。
神によって名前を変えられるということは、そこでそれまでの古い自分と違う、新しい自分の姿を示されるこです。そして今日の箇所でもまた、ガリラヤ漁師シモンが、神の御子によって、新しい自分、本当の自分の姿を示されようとしているのです。
Ⅱ:ペトロとペトラ
この時主イエスによって示された、シモンの新しい姿は、「ペトロ」という名前に象徴されています。ペトロは、アラム語のケファにあたる言葉で、どちらも「岩」という意味の言葉です。
そして18節後半にはもう一つの「岩」という言葉が出てきますが、これは「ペトラ」というギリシャ語になります。「ペトロ」が、比較的小さな岩(手に持つことが出来るくらいの石くれ)を指すのに対して、ペトラはより大きな岩や地面の下に埋まっている岩盤を表わす言葉です。
今日の箇所で主イエスは、このペトロとペトラという二つの言葉の語呂合わせをしながら、私はこの「ペトロ」という人物を教会を建て上げる「岩盤の岩(ペトラ)」にすると約束しておられるのです。
しかしこの主イエスからペトロと名付けられた人物は、「岩盤(ペトラ)」と呼ぶにはほど遠い人物です。むしろ彼は、風が吹けばコロコロと転がっていく小さな石(ペトロ)のような弱くて頼りない人物でした。「たとえ他の弟子たちが全員あなたを見捨てたとしても、この私だけは決してあなたを捨てません」と誓った、そのすぐ後に三度、「イエスなど知らない」と人々の前で否定する。そして、その自分の弱さを克服するすべも、罪を償う術も持たず、ただただ後悔の涙を流すことしか出来ない。そういう弱くて無力な人物。それが主イエスが「ペトロ(岩)」と名付けられた男の、本当のありのままの姿でした。このような人物の一体どこに「ペトラ(岩盤)」と呼べるような力強さや確かさがあるでしょうか。
ところが、その小さく壊れやすい、脆い石くれに過ぎないペトロを、主イエスは「ペトラ(岩盤)」と呼んで、「私はこのペトラの上に私の教会を立てる」と約束されたのです。ペトロ自身は「岩」と呼べるような強さや信仰深さを何も持っていません。それなのに主イエスは、私がその弱い罪深いペトロを、ご自分の教会を建てる岩として用いると宣言されたのです。
Ⅲ:天の国の鍵
そして、そのペトロをはじめとする弟子たちに主イエスが与えられたもう一つの約束が「天の国の鍵を与える」という言葉です。主イエスはここで、人々の前に天の国の門を開いたり、反対にそれを閉ざしたりする事が出来る特別な権能を、ご自分の教会に委ねると約束されたのです。しかし、本当の意味で天の国へと招き入れる門を開けることが出来るのはイエス・キリストただお一人です。教会が天の国の門を自由に開け閉めするということは出来ないのです。
では、主イエスは何のために、この天の国の鍵を教会に授けられたのでしょうか。マタイ福音書の23章13節には「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」とあって、人々を天の国に招くためではなく、もっぱら閉ざすために自分たちの権能を用いていた宗教指導者の態度を厳しく批判しておられます。
キリストが教会に委ねられた天の国の鍵とは、すなわちイエス・キリストの「福音」の事を指しています。そしてその福音という鍵は、天の国を閉ざすために教会に与えられているのではなく、それを人々の前に「開く」ための鍵として与えられているのです。
教会に与えられている努めは、人を裁いて天の国を閉ざすことではなく、あくまで人々の前に天の国の門を開いて招き入れることなのです。日本において私たちキリスト者は数の上では圧倒的な少数です。しかしその教会には、世の中のどんな国家も権力者も持っていないような特別な力が与えられています。そして、死に勝利し、天の国の門の鍵を開いて、人々を真の命へと招く幸いな働きを委ねられているのです。
Ⅳ:本当の私を知るために
主イエスは今朝、この礼拝を通してキリストを私の救い主と告白することが許されている私たちにも、ペトロにしたのと同じ約束をしておられます。すなわち、「弱くて罪深い者、人生の試練や苦しみに転がり続ける石ころに過ぎないあなたを、このわたしが、わたしの教会を建て上げる強固な岩の一つとする」と約束してくださっているのです。そして同じイエスを主と告白する仲間と共に、教会の外にいる「まだイエスが何者であるか、自分が何者であるかを知らない人々」の前に天の国の門を開いて、神の救いへと招き入れる、その幸いな働きへと、私たち一人一人を招いていてくださるのです。
キリストが誰であるかを知ること、それは私自身を知る事でもあるのです。