Ⅰ:あなたは何者かと尋ねる人々
今日の「ペトロの信仰告白」と呼ばれている箇所は、これまでのガリラヤ宣教の集大成であり、十字架の死へと向かって歩み出す分水嶺にあたる箇所として大変重要な意味を持っています。
ここまで主イエスに対して「あなたは何者ですか」と尋ねる人々は、この福音書に何人も登場しました。しかし、洗礼者ヨハネを除けば、これらの質問に対して主イエスは何もお答えになりませんでした。そこには、「信仰とは、私たちが主イエスに対して「あなたは何者ですか」と質問して答えてもらうことではない」という大切な原則が表れています。
では、人々はこれまで、主イエスをどういうお方と言い表してきたのでしょうか。
主イエスに敵対する律法学者やファリサイ派の人々は、主イエスを「悪霊の頭」と呼んでいます。
そして、ユダヤの群衆たちは以前、主イエスの教えや奇跡を目撃して「この人はダビデの子ではないだろうか」と噂し合ったのです。今日の箇所では、「人々は人の子を何者と言っているのか」という問いに対して、弟子たちが名前の挙げられている三人の人物は、いずれも群衆が預言者と見なしていた人達です。ですから、この時点での人々の主イエスに対する評価は「預言者」でした。
では、主イエスの弟子たちは、主イエスをどういうお方と言い表してきたでしょうか。彼らは、ある日主イエスから「私について来なさい。」と声を掛けられて弟子となりました。しかし、その時の彼らは、目の前にいる人物について殆ど理解していなかったのでしょう。また彼らが乗り込んでいた舟が嵐に襲われて、主イエスがそれを鎮められるのを目撃した時も、彼らは驚いて「いったい、このお方はどういうお方なのだろう」と論じ合いましあ。ですからその時点もまだ、彼らは主イエスがどういうお方なのかを正しくは理解していなかったのです。
Ⅱ:あなたはわたしを何者と言うのか
その弟子たちが、今日の箇所では(ペトロが代表して)主イエスを「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と告白しています。これまで「信仰の薄い者よ」「まだ悟らないのか」と主イエスを何度も落胆させてきた弟子たちが、ここでついに、目の前にいる主イエスを約束された救い主(メシア)であると告白したのです。このペトロの信仰告白が、マタイ福音書の前半、主イエスのガリラヤ宣教の到達点なのです。
そこでこのペトロの答えを聞いた主イエスは、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」と述べて、ペトロの答えを喜ばれたのです。
ところが、こんな素晴らしい信仰を告白をしたペトロが、その舌の根も乾かないうちに、今度は「引き下がれサタン」と主イエスから失跡されるような大失敗を犯したことが、すぐ次の箇所に記されています。このペトロの弱さは、私たちの持つ弱さでもあります。
Ⅲ:父なる神によって信仰を告白する
しかし、主イエスはここで、この時ペトロは、彼自身の知恵や努力で、この真理に到達したのではなく、父なる神ご自身がこの真理を悟らせてくださったということを明らかにしています。ここにペトロの信仰告白の秘密があります。
信仰とは、私たちが「イエスとは何者か」と質問して、自分に都合の良い答えを与えられることではありません。信仰とは、御言葉を通して示されるイエス・キリストというお方を、そのままで「わたしの主」「私の神」として受け入れることです。そしてそれはどんなに知恵や知識が遭っても、人間性が優れた人であっても、神がそうしてくださらなければ、人間の知恵や信仰によってこの真理を受け入れることは出来ないのです。反対に、その人がどれ程心が暗くて、疑り深い人であったとしても、あるいは人間的に大きな欠けや問題を抱えていたとしても、神がご自分が何者であるかをその人にお示しくださるなら、誰でもこの御方を本当の意味で「神の御子」「私の救い主」として告白する事が出来るのです。
Ⅳ:信仰への招きの言葉として
ただし、そのような信仰を神から与えられれば、その信仰はもう揺らぐことなくことがないのかと言えば、そうではありません。使徒ペトロがそうであったように、私たちは信仰の人生を生きていく中で時にキリストの姿を見失い、このお方がどういうお方なのかが分からなくなるのです。
しかし大切なのは、私たちが「あなたは私を何者と言うのか」という問いに、いつも正しい答えを選択するという事ではありません。苦しみの中にいる時に、キリストの姿が見えなくなった時に、そこで私たちが「あなたは私を何者と言うのか」と呼び掛けておられる主イエスの言葉を「聞く」ことなのです。そして御言葉と祈りを通して、その問いに対する答えを神御自身から教えていただく以外に、このお方を「私の救い主」「私の生ける神」として告白し続けることは出来ないのです。
「あなたは私を何者というのか」という今日のこの主イエスの問い掛けは、私たちが正しい答えを選択できるかどうかをテストする「信仰の試験」ではありません。自分の知恵や信仰によっては、この御方を主と告白することの出来ない頑なな私たちを、イエスを主と告白する信仰へと導くための愛と憐れみに満ちた招きの言葉なのです。
今日も私たちは、礼拝を通して「あなたは私は何者というのか」という主イエスの問い掛けを聞き、その人間の知恵や努力では得られない真理を信じる信仰を、父なる神から与えられて、「あなたこそ私の救い主です、生ける私の神です」と答えることが出来る、まことに幸いな者たちなのです。