Ⅰ.イースターの午後の出来事
皆様、改めましてイースターおめでとうございます。
イースターが日曜日と決まっているのは、イエスが復活されたのが日曜日の朝だったからです。そのイースターの日曜日の午後、二人の人物がエルサレムからエマオという村へ旅をしていました。彼らもまた主イエスに従ってエルサレムまで付いてきた主イエスの弟子の仲間です。恐らく彼らはエルサレムを離れて、自分たちの故郷であるエマオに帰ろうとしていたのではないでしょうか。いずれにせよ、ここまで彼らは、エマオに向かう道すがら、金曜日からこの日曜日にかけてエルサレムで起きた出来事について話し合いながら旅を続けていたのです。しかし、その彼らの顔は希望を失い、暗く沈み込んでいました。彼らも使徒たちと同じように、女性たちの証言を信じてはいなかったのです。
すると、彼らが暗い顔をして論じ合っていところに、何と当の主イエス本人が、彼らに近づいて来て、一緒に歩き始められたのです。不思議なことに、彼らはその人物が主イエスであることに気が付きませんでした。多分、彼らの信仰の目が閉ざされていたために、目の前にいるお方が主イエスであるということが分からなかったのでしょう。
Ⅱ:復活の希望のない信仰
そこで、主イエスは素知らぬ顔で「あなたがたが議論しているのは何のことですか」とお尋ねになりました。するとこの二人の弟子は驚きながらも、自分たちが道々話し合ってい事柄について話し始めたのです。19節から24節に、その彼らの言葉が記されています。その弟子の証言をよくよく見てみますと、その前半部分は、彼らが実際に見聞きしたり、体験したことについて語られています。あるいは、彼らの常識の範囲内で起こっていることと言っても良いかも知れません。ですから、この二人の弟子たちは、主イエスを力ある預言者と信じ、イスラエルを救う約束のメシアであると信じることはできました。しかし、後半の「主は生きておられる」という言葉は、彼らの常識の範疇を超えた出来事だったのです。ですから、彼らはその言葉を信じることが出来ず、イースターの朝を迎えても彼らの心は喜びに満たされませんでした。
主イエスの言葉にいくら感動しても、キリストの十字架がわたしの罪を贖うためのものだったと信じても、「キリストは復活して生きておられる」という事柄を信じることが出来なければ、その信仰は本当の希望や喜びとはならないのです。
Ⅲ.御言葉と礼典
「キリストの復活」が事実でなければ、キリストもまた「死」に打ち勝てなかったということになります。そうであれば、私たちがキリストに対してかけている望みもまた、死を乗り越えることが出来ない虚しく希望として終わるしかありません。しかし、もしキリストが本当に死から甦えられたのであれば、そのキリストにかける私たちの望みは、肉体の死によっても失われることのない死に打ち克つ永遠の希望となるのです。
それは、死後の世界における救いに対する希望ではありません。今、戦争や災害で苦しんでいる人が大勢いる「世界」に、イエスは生きておられるのです。辛く悲しいことが絶え間なく起こる人生の中に、イエスは生きておられ、共にいてくださるのです。そのことを信じるということがキリストの復活を信じるということなのです。
私たちは今、目に見える形でイエス・キリストというお方にお会いすることは出来ません。私たちの耳で主イエスの言葉を直接聞くということも出来ません。しかし、聖書とその解き明かしである説教を通して、また主イエスからパンを分け与えられる聖餐を通して、目には見えないけれども生きて私たちと共におられるキリストとの出会いを体験することが出来るのです。
Ⅳ.喜びに輝いて日常へ帰る
主イエスとの出会いの後、二人の弟子たちは「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」いきました。望みが潰え、希望を失ってエルサレムを離れていった彼らが、今再び、そのエルサレムへ戻ろうとしているのです。エルサレムは彼らがキリストの死を目撃し、自分たちの期待が裏切られ、希望を失った場所です。しかし今や彼らは、そこにもキリストは生きておられるという信仰を与えられて、エルサレムへと戻って行くのです。その彼らの顔は、来た時とはまるで反対の、喜びに満ちた顔で夜の暗い道を駆けて行ったのです。
皆様の中にも、イースターの朝が来ても心から喜べない方がおられるかも知れません。日々の様々な苦しみや試練に疲れて暗い顔をして教会に来られた方、将来に対する希望を失って、破れそうな心を抱えて座っておられる方もおられるかもしれません。しかし、今朝神は聖書を通して「キリストは生きておられる、生きて今日もあなたがたと共に歩いておられる」と教えているのです。私たちの辛い現実の中にも、キリストは確かに生きておられる、そして私たちに近づき、私たちと共に歩いてくださる、と。
このイースターの良き知らせをしっかりと握りしめて、私たちも二人の弟子たちのように喜びに輝いて、希望に満ちた明るい顔をして、それぞれが生きている日常へと帰って行くのです。