2022年08月28日 朝の礼拝「神の恵みから始まる救い」

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2022年08月28日 朝の礼拝「神の恵みから始まる救い」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 1章1節~2章10節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。
1:2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、
1:3 イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、
1:4 ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。
1:5 ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。
1:6 ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、
1:7 イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。
1:8 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
1:9 国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
1:10 抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
1:11 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
1:12 しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、
1:13 イスラエルの人々を酷使し、
1:14 粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
1:17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
1:18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」
1:19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
1:20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。
1:21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。
2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。
2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、
2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。
2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。
2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
2:8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。
2:9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、
2:10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 1章1節~2章10節

原稿のアイコンメッセージ

 出エジプト記の前にあります創世記の最後は、有名な「ヨセフ物語」で終わっています。聖書を読んでいますとヨセフ物語が終わって一頁めくると、すぐにこの出エジプトについての物語が始まります。しかし、出エジプト12章によれば、この書物の間には四百三十年の隔たりがあると書かれています。その間にヤコブもその息子たちも死に、世代が代わりますと、かつてヨセフがエジプトを飢饉から救い出したという事実は人々の記憶から忘れられていきました。すると今度は、急速に数を増やしていくイスラエルの子孫に対してエジプト人たちは恐れを抱き、様々な手段を講じてイスラエルの民を苦しめようとするのですけれども、しかしその度にイスラエル人はその子孫の数を増やしていった事が繰り返し述べられています。それはイスラエルの民自身も気が付いていませんが、神の守りと祝福が彼らの上に注がれているという事を意味しています。こうして神の民であるイスラエルをエジプトの奴隷から救い出すという神の御計画は、人間の目に見えないところで深く進んでいくのです。しかし、本当の意味で彼らが奴隷の苦しみから解放されるまでには、数百年という長い時間が必要だったのです。そこで「なぜ神様はもっと早く彼らを助けだして下さらなかったのだろうか」という疑問が私たちには湧いて来るのではないでしょうか。
 確かにヤコブのエジプト移住から出エジプトまでの四百三十年という時間は、私たちの目から見れば途方もない長い時間であります。しかし、神の目にはそれはほんの僅かな時間に過ぎません。その事を新約聖書の中で使徒ペトロは「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と述べています。「いや、しかし」と私たちは言うでしょう。確かに神にとっては何百年であろうと何千年であろうと、それは一瞬の出来事に過ぎないかも知れません。しかし、私たちにとって何年、何十年という時間は決して短い時間ではありません。ですから私たちにはそんな長い間、苦しみを耐え抜くということは出来ません、と反論するのではないでしょうか。
 しかし、今朝の出エジプト記の記事を通して私たちは次のように考える事も出来ます。
すなわち、私たちの今の苦しみは決して永遠に続くのではない、必ずその苦しみが終わりがあるのです。それが何時終わるのか、何年先か、何十年先か、それは私たちにはわかりません。しかし必ず終わりは来るのです。そして神はこの出エジプトを実現されるまでの四百年の間、かつてアブラハムとの間に交わした約束を、片時もお忘れにならなかったのです。いや忘れていないどころか、世の権力者が、自らの権力を持ってイスラエルを苦しめようとする中で、神はご自分の民を様々なその攻撃から守りつつ、救いの計画を勧めておられたのです。
 たとえ何十年、何百年たとうが、神の約束は決して変わることはありません。私たちがどんなに愚かで罪深い者であって、弱く貧しい信仰しか持たない者であったとしても、私たちを捨て去ることは決してないのです。たとえ私たちが希望を失い、もうだめだと諦めてしまうとしても、神は決して私たちを救うことを諦める事はないのです。その事が、創世記の終りから出エジプトまでの、長い時間の中にもあらわされているのではないでしょうか。
 そしてこの時、その神様の救いの計画を実現する器として選ばれたのが、このモーセという人物でした。神はこのモーセを用いてこの後「出エジプト」を実現なさいます。そして荒野での40年の旅を経て人々を約束された土地へと導くことになります。そして申命記18章で、約束の土地を目の前にして死を迎えようとしているモーセは、イスラエルの民に次のように語っています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」さらに神御自身もモーセのような預言者が再びイスラエルの中から起こされると約束しています(18節)。
 そして私たちはこの申命記の約束が、何時どのようにして成し遂げられたかを知っています。すなわち、申命記のモーセの死から更に千年以上の時を経て、イエス・キリストという御方によって、申命記に書かれていた神の約束が実現したのです。そして新約聖書の最後はヨハネ黙示録の「わたしはすぐに来る」という、主イエスの再臨の約束で終わっています。この黙示録の約束が書かれてから、すでに二千年という長い年月が過ぎました。しかし「すぐに来る」と言われた主イエスは、今もまだ私たちのところには来ておられません。ではこの約束は、もう実現しないのでしょうか。いや、そうではありません。神にとって千年は一日のようであり、一日は千年のようであるのです。神は四百年の時を経ても、イスラエルの民との約束を忘れる事は決してありませんでした。また「モーセような預言者を立てる」と言われた約束を、千年の時を超えて実現してくださいました。そして今、私たちとの間に交わしてくださっている「わたしはすぐに来る」というこの約束も神は必ず実現してくださるのです。
 私たちは抱えている問題に長い間苦しめられてきたかも知れません。いや今も苦しんでいるかもしれません。もうこの苦しみから解放される日は来ないのではないかと思って、希望を失う日があるかも知れません。しかし私たちが今、どんなに辛く、苦しい状況に置かれているとしても、たとえ私たちの目には光がまだ見えないとしても、神の救いの御手は今も私たちに働いているのです。そして、やがて主イエス・キリスト再び私たちの元に来てくださるその日には、私たちをその苦しみから完全に解放して、二度と奪われることのない永遠の救いへと導いてくださるのです。その神の救いは、今朝、この礼拝を通して神様から恵みと祝福を注がれている時からもう既に始まっているのです。

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