出エジプト記の前にあります創世記の最後は、有名な「ヨセフ物語」で終わっています。聖書を読んでいますとヨセフ物語が終わって一頁めくると、すぐにこの出エジプトについての物語が始まります。しかし、出エジプト12章によれば、この書物の間には四百三十年の隔たりがあると書かれています。その間にヤコブもその息子たちも死に、世代が代わりますと、かつてヨセフがエジプトを飢饉から救い出したという事実は人々の記憶から忘れられていきました。すると今度は、急速に数を増やしていくイスラエルの子孫に対してエジプト人たちは恐れを抱き、様々な手段を講じてイスラエルの民を苦しめようとするのですけれども、しかしその度にイスラエル人はその子孫の数を増やしていった事が繰り返し述べられています。それはイスラエルの民自身も気が付いていませんが、神の守りと祝福が彼らの上に注がれているという事を意味しています。こうして神の民であるイスラエルをエジプトの奴隷から救い出すという神の御計画は、人間の目に見えないところで深く進んでいくのです。しかし、本当の意味で彼らが奴隷の苦しみから解放されるまでには、数百年という長い時間が必要だったのです。そこで「なぜ神様はもっと早く彼らを助けだして下さらなかったのだろうか」という疑問が私たちには湧いて来るのではないでしょうか。
確かにヤコブのエジプト移住から出エジプトまでの四百三十年という時間は、私たちの目から見れば途方もない長い時間であります。しかし、神の目にはそれはほんの僅かな時間に過ぎません。その事を新約聖書の中で使徒ペトロは「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と述べています。「いや、しかし」と私たちは言うでしょう。確かに神にとっては何百年であろうと何千年であろうと、それは一瞬の出来事に過ぎないかも知れません。しかし、私たちにとって何年、何十年という時間は決して短い時間ではありません。ですから私たちにはそんな長い間、苦しみを耐え抜くということは出来ません、と反論するのではないでしょうか。
しかし、今朝の出エジプト記の記事を通して私たちは次のように考える事も出来ます。
すなわち、私たちの今の苦しみは決して永遠に続くのではない、必ずその苦しみが終わりがあるのです。それが何時終わるのか、何年先か、何十年先か、それは私たちにはわかりません。しかし必ず終わりは来るのです。そして神はこの出エジプトを実現されるまでの四百年の間、かつてアブラハムとの間に交わした約束を、片時もお忘れにならなかったのです。いや忘れていないどころか、世の権力者が、自らの権力を持ってイスラエルを苦しめようとする中で、神はご自分の民を様々なその攻撃から守りつつ、救いの計画を勧めておられたのです。
たとえ何十年、何百年たとうが、神の約束は決して変わることはありません。私たちがどんなに愚かで罪深い者であって、弱く貧しい信仰しか持たない者であったとしても、私たちを捨て去ることは決してないのです。たとえ私たちが希望を失い、もうだめだと諦めてしまうとしても、神は決して私たちを救うことを諦める事はないのです。その事が、創世記の終りから出エジプトまでの、長い時間の中にもあらわされているのではないでしょうか。
そしてこの時、その神様の救いの計画を実現する器として選ばれたのが、このモーセという人物でした。神はこのモーセを用いてこの後「出エジプト」を実現なさいます。そして荒野での40年の旅を経て人々を約束された土地へと導くことになります。そして申命記18章で、約束の土地を目の前にして死を迎えようとしているモーセは、イスラエルの民に次のように語っています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」さらに神御自身もモーセのような預言者が再びイスラエルの中から起こされると約束しています(18節)。
そして私たちはこの申命記の約束が、何時どのようにして成し遂げられたかを知っています。すなわち、申命記のモーセの死から更に千年以上の時を経て、イエス・キリストという御方によって、申命記に書かれていた神の約束が実現したのです。そして新約聖書の最後はヨハネ黙示録の「わたしはすぐに来る」という、主イエスの再臨の約束で終わっています。この黙示録の約束が書かれてから、すでに二千年という長い年月が過ぎました。しかし「すぐに来る」と言われた主イエスは、今もまだ私たちのところには来ておられません。ではこの約束は、もう実現しないのでしょうか。いや、そうではありません。神にとって千年は一日のようであり、一日は千年のようであるのです。神は四百年の時を経ても、イスラエルの民との約束を忘れる事は決してありませんでした。また「モーセような預言者を立てる」と言われた約束を、千年の時を超えて実現してくださいました。そして今、私たちとの間に交わしてくださっている「わたしはすぐに来る」というこの約束も神は必ず実現してくださるのです。
私たちは抱えている問題に長い間苦しめられてきたかも知れません。いや今も苦しんでいるかもしれません。もうこの苦しみから解放される日は来ないのではないかと思って、希望を失う日があるかも知れません。しかし私たちが今、どんなに辛く、苦しい状況に置かれているとしても、たとえ私たちの目には光がまだ見えないとしても、神の救いの御手は今も私たちに働いているのです。そして、やがて主イエス・キリスト再び私たちの元に来てくださるその日には、私たちをその苦しみから完全に解放して、二度と奪われることのない永遠の救いへと導いてくださるのです。その神の救いは、今朝、この礼拝を通して神様から恵みと祝福を注がれている時からもう既に始まっているのです。