2025年04月06日 朝の礼拝「本物を見極める」

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2025年04月06日 朝の礼拝「本物を見極める」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
16:2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
16:3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
16:4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 16章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:ファリサイ派とサドカイ派の人々
 1節で人々が要求した「天からのしるし」とは、これまで主イエスが行ってきた奇跡(病人の癒しや悪霊の追い出し)とは異なる、たとえば天変地異を起こすといったような、はっきりと神の業と分かる奇跡のことです。彼らがこの「天からのしるしを見せて欲しい」と求めたのはこれが初めてではなく、12章ですでに同じ要求を主イエスにしています。ただし、12章で主イエスにしるしを求めたのは「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」でしたが、今日の16章では「ファリサイ派とサドカイ派の人々」となっています。ファリサイ派とサドカイ派は当時のユダヤ教の二大勢力でしたが、一方で彼らは律法の解釈を初めとして、様々な点において異なる思想と特徴を持っていました。ですからこの二つのグループは普段は仲が悪く、対立する関係にあったのですが、この時は主イエスを「イ試す」ために手を結んだのです。そして彼らは前回以上に、主イエスに対するはっきりとした敵意を持って対決しようとしていたのです。ですから仮に主イエスが何か奇跡を行ったとしても、彼らは最初から神の業とは認めるつもりはなかったのです。

Ⅱ:しるしを見分けられない人々
 そこで、そのような悪意に満ちた彼らの求めに対する主イエスの答えは大変冷たいものでした。最初の2節から3節には「時のしるしを見分けることについて」の言葉があります。主イエスはここで、あなたがたは自然を観察することで明日の天候を予測することが出来るのに、なぜ「時のしるし」を見分けることができないのかと問いかけられています。ですから、ここで言う「時のしるし」は「天変地異を起こす」といった彼らが目にしたことのない奇跡ではなくて、すでに目にしているしるしなのです。それは一言で言えば、前回の15章31節に報告されている「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになった」という主イエスの御業のことです。
 主イエスは洗礼者ヨハネに対しても、ご自分が行っておられる癒しの業を伝えるように言われましたが、今日の箇所でも敵対者に対して、あなたがたがすでに見て、また耳で聞いている御業の中に、ご自分を通して神の救いが実現しつつある「時のしるし」が現れているのに、あなたがたは心を頑なにしてそれを認めようとはしないではないか、と問い質しておられるのです。それに続く「ヨナのしるし」とは、主イエスの十字架の死と復活の出来事を指しています。そこで主イエスは、この「ヨナのしるし」以外にしるしは与えられないと告げて「彼らの前を立ち去られた」のです。

Ⅲ:弟子たちの議論
 続く5節以下で今度は、弟子たちの反応が描かれています。再びガリラヤ湖の向こう岸に渡った弟子たちは、自分たちが「パンを持って来るのを忘れてい」る事に気が付きます。すると、ちょうどその時に主イエスが「パン種」について意味深なことを言われたので、彼らは自分たちがパンを忘れて来たことを主イエスが咎められたのだと思って互いに議論をし始めたのです。
 主イエスの敵対者たちが、主イエスの中に示されている「しるし」を見ていながら、敵意と嫉妬の故にそれを認めようとしなかったのと同じように、弟子たちもまた、主イエスが僅かなパンと魚を用いて群衆を養われた出来事を二度も目撃しながら、その「しるし」を正しく理解することが出来ずに、今食べるパンがないという目の前の現実に目を奪われていたのです。この彼らの頑なさや愚かさを、しかし私たちは笑うことは出来ないのではないでしょうか。これまでに何度も、苦しみの中で神が手を差し伸べて救ってくださったのに、その事をすっかり忘れてしまい、目の前にある問題や苦しみに心を捕らえられてしまう。
 神の恵みと憐みが日常の中に注がれているのに、それを見つめる信仰の目を持たないために、目の前のことを心配し、恐れて、心挫けている。それが私たち人間の姿なのです。そしてそのように「天からのしるし」「時のしるし」を見つめることが出来ないのは、私たちの心が常に自分の常識や価値観に囚われているからです。6節を直訳すれば「自分たちの間で議論していた」となります。彼らはこの時、パンを用意するのを忘れた自分たちの失敗に心を囚われて「その言葉の意味を教えてください」と主イエスに尋ねる代わりに、自分たちだけでその問題を議論して解決しようとしていたのです。

Ⅳ:信仰のビジョンを得るために
 今、私たちの社会全体を恐れと不安の影が急速に覆いつつあると感じます。戦争、疫病、災害、環境破壊・・・。そこでそういう世界が抱えている解決困難な問題について、インターネットやSNSを通して与えられる「分かりやすい答え」や「力強い教え」に簡単に飛びついてしまうのです。あるいは私たちの人生の問題についてもそうです。私たちの人生の中には、原因も意味も分からない苦しみや試練があります。私たちの人生に起こる問題の多くは複雑で、すぐに答えが見つからないまま、その問題と向き合い続けなければならないのです。そしてその答えを人間の言葉や価値観の中に求めても、決して本当の答えは見つからないのです。
 私たちが人生の本当の意味を知りたいと願い、人生で抱えている問題の本当の解決を得たいと願うなら方法はただ一つです。自分たちの間で議論するのを止めて、天の神に目を向けることです。人間の言葉ではなく、神の言葉に耳を傾けることです。私たちの目に移る世界の姿は、人間の悪と怒りと憎しみが渦巻いて、戦争や災害や疫病で人々が苦しんでいる希望のない場所かも知れません。私たち一人一人もまた、辛く苦しい暗闇のような人生を歩んでいるのかも知れません。しかし、その希望の見えない人生の中に、天からの神のしるしを見出し、神の救いが実現しつつある時のしるしを信仰の目によって見い出すことが出来るのは私たち信仰者だけなのです。そしてその信仰のビジョンを得るために、私たちはたとえ「信仰の小さい者よ」と言われ続けても、今日も繰り返し「主よ、その言葉の意味を教えてください」と問い続けるのです。

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