2025年03月30日 朝の礼拝「恵みと賛美」

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2025年03月30日 朝の礼拝「恵みと賛美」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章29節~39節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。
15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
15:34 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
15:35 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、
15:36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
15:38 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
15:39 イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 15章29節~39節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:五千人供食の繰り返し?
 皆さんは、今日の四千人供食の奇跡が、少し前の日曜日に読んだ14章に記されていた「五千人供食」と呼ばれる奇跡と殆ど同じ内容であるということにすぐにお気づきになると思います。
 ですからある学者は、これらの奇跡は、元々は同じ一つ出来事であって、それが別々の伝承として教会に伝えられたのではないかと推測しています。
 一方で過去の説教者たちは、この二つの出来事がそれぞれ異なる場所と時間に行われたと考えて、最初の五千人供食はユダヤ人の間で行われた奇跡として、今日の四千人供食は異邦人の間で行われた奇跡として理解して来ました。
 一方で、このような理解に反対意見が無い訳ではありません。直前の箇所では、相手が「異邦人である」という理由でカナン人の母親の願いを拒んでおられた主イエスが、すぐ後の箇所で、異邦人の病を癒したのだとすれば、あの母親に対する主イエスの態度は何だったのかという事になってしまいます。ただ、マタイ(あるいはマルコも)今日の奇跡をカナン人の女性とのやり取りの後に置いているということには、やはり何らかの意味があるのではないかと思います。恐らく福音書の著者たちは、主イエスが人々に宣べ伝えられた「天の国(神の国)」に、ユダヤ人だけではなく異邦人もまた招かれているのだということを「言外に」匂わせているのではないでしょうか。そこで、主イエスによって実現する「神の国」は、「口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようにな」ると言われています。そしてその神の恵みを受けた人々が神を賛美して誉め歌う。それが来るべき神の国の姿であり、そしてそこにはユダヤ人だけではなく、異邦人も招かれているのです。

Ⅱ:天の国の前味
 今日の四千人供食の奇跡もまた、神の国がどのような姿をしているのかが描かれていると言って良いでしょう。主イエスは、弟子たちを呼び寄せると『「群衆がかわいそうだ。・・・」』と言われましたが、「かわいそうだ」と訳されている言葉は、「内臓が揺さぶられる」というような深い同情と憐みを表わす言葉です。そしてこの言葉は9章35節にも同じ言葉が使われています。また9章35節の「打ちひしがれている」という言葉は、今日の15章30節で「横たえる」と訳されているのと同じ言葉です。
 主イエスは、ユダヤの群衆をご覧になって、彼らが「飼い主のいない羊」のように弱り果てて、投げ出されているのを深く憐れまれたように、今生まれながらに神を知らず、神なき民として生きている異邦人たちをご覧になり、同じように彼らをも深く憐れまれたのです。前回の箇所で「子どもたちのパンを小犬に与えるのは良くない」と言われた主イエスが、ここでは食べる物がなく、空腹に苦しんでいる(異邦人の?)群衆を、食卓から落ちるパンくずどころではなく、彼ら全員が満腹して有り余るほどのパンを与えられ、彼ら全員を満腹させられたのです。

Ⅲ:主の本当の心を知る
 そして、これこそが主イエスの本当の心なのです。確かに神の救いの知らせは、まず旧約の民であるユダヤ人に告げ知らされなければならず、この時はまだ、異邦人は食卓から落ちるパンくずにあずかることしか出来なかったのかも知れません。ですから主イエスはカナン人の母親の願いを聞こうとされなかったのです。しかし、主イエスの本心は、ユダヤ人だけではなく、全世界のあらゆる民が神の豊かな恵みを受けて満腹することなのです。そしてその事は、この後の主イエスの十字架の贖いが、ユダヤ人だけではなく、全ての神の民の罪を贖うためのものであったということによって明らかになるのです。
前回のカナン人の女性は、苦しみの中で祈りが聞かれない私たちの姿であるとも言えます。なぜ神は、私たちが苦しみや悩みの中で必死に助けを祈り求めているのに、何も手を差し伸べてくださらないのか。そもそもなぜ神は私たちを試練や苦しみに遭わせられるのか。その答えは、いくら祈っても分からないかも知れません。神の沈黙に隠されている深い御心を、私たちがすべて悟るということは出来ないのです。しかし、たとえ人生の苦しみや試練の中で私たちの祈りが願い通りに聞かれない時にも、天から「子どものパンを小犬に与えるのは良くない」という冷たい答えしか返って来ないと感じる時にも、キリストの本当の心、すなわち父なる神の心は、私たちに対する深い愛と憐れみなのです。
 キリストはご自分のもとに従って来る者を見放したり、見捨てたりすることはなさらず、むしろ、私たちの痛みや苦しみをご自分が身を身を裂かれるような深い同情をもって憐れんでくださるのです。いや、ただ憐れむだけでなく、その私たちを救うために、実際にその身を十字架で割かれてくださったのです。それほどまでに私たちを愛し、私たち一人一人の痛みや苦しみに真に寄り添ってくださるのが私たちの主であるイエス・キリストというお方なのです。

Ⅳ:愛と祝福に満たされて
 今日も皆さんは、一週間の生活の中で様々な痛みや苦しみを経験して来られたかも知れません。そういう中で、神の御言葉によって少しでも慰めを得たいと願いつつ集まって来たご自分の民を、主イエスが空腹のまま、疲れ切ったままでお帰しになることなどあり得ないのです。主イエスは今日も、この礼拝を通して私たちに天から溢れんばかりの愛と祝福を注いでくださって、私たちをそれぞれの新しい生活へと送り出してくださるのです。たとえ私たちの人生にどのような試練が降りかかって来ようとも、世の中がどんなに変わろうとも、この主の私たちに対する深い愛と憐れみは永遠に変わることがないのです。

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