Ⅰ:多様性と不寛容の時代
現代社会は「何が真理なのか」がわからず、進むべき方向性を示す指針や目標というものを見失っています。では、そのような時代の中で、私たちキリスト者は、本当に幸福に生きるための指針や真理を、どこに見い出す事が出来るのでしょうか。
ウェストミンスター小教理問答は、その問いに対して「啓示された神の御意志」こそが生きるための「指針」であり、「真理」であると教えています。そして今日の20章から始まる「律法」は、神がモーセを通してご自分の民に示された「神の御意志」であり、これからイスラエルの民が約束の地において神の民として生きていくための「道しるべ」であり「生きる指針」なのです。
「十戒」は、神の御意志である律法の要約、あるいは中心であると言うことが出来ます。
キリスト教会は長い間、この十戒を「信仰者の生活の指針」として、信仰者の信仰教育のために用いるなど、大切にしてきました。ところが、現代の教会においてこの十戒は、あまり人気がありません。その理由は「多様な価値観」が尊重される時代において、十戒は自分の行動を制限して自由を奪う「鎖」のように感じるからではないでしょうか。
Ⅱ:十戒とは何か
「十戒」という日本語は、文字通り「十の戒め」を意味していますが、しかし聖書の本文には、「十の戒め」という言葉は基本的にありません。例えば出エジプト記34章28節は、新共同訳は『十(とお)の戒めからなる契約の言葉』となっていますが、原文では「十の言葉・・・」となっています。
今日の20章1節でも『神はこれらすべての言葉を告げられた』と書かれていて「すべての戒め」とは言われていません。この事からも、十戒は単なる規則やルールではなく、その本質は、ご自分の民に対する「神の言葉」「語りかけ」でなのです。
続く2節は、一般に「十戒の序言」と呼ばれている文章です。そこで神はまず「わたしが主、あなたの神」と宣言して、更にご自分が「あなた方をエジプトから救い出した神である」と述べておられます。神は「十戒をすべて守ることが出来たら、あなたがたを私の民にしてあげよう」「エジプト人の手からから救い出してあげよう」と言われたたのではなく、そもそも神の律法など知らない民をご自分の民として選び、エジプトの奴隷の軛から救い出されたのです。更にその後も神に対して不平を述べる民を養い続けてシナイ山までの荒野の旅路を導いてこられたのです。
そしてその上で、今彼らとの間に契約を結ぼうとしておられるのです。この順序が大切です。その意味で旧約聖書の律法と十戒は、キリストの福音と対立するのではなく、律法もまた神の恵みの「福音」に他ならないのです。
Ⅲ:自由への指針として
では本来恵みであり、福音である十戒を、私たちが窮屈で不自由なものと感じるのはなぜでしょうか。それは律法それ自体に問題があるのではなく、その律法に従うことが出来ない私たちの罪の性質に原因があります。
使徒パウロはローマ書3章20節で『律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです』と説明しています。そのように律法は、私たちが持っている「自己中心」の罪を否応なしに暴き出すのです。だから私たちは十戒を「福音」ではなく、自分の自由を制限して縛り付ける鎖と感じるのです。しかしそこで私たちが守ろうとしている自由は、「罪を行う自由」であり、「自己中心に生きる自由」であり、「神に背を背け続ける自由」なのです。
十戒・律法は、その人間の罪の性質を明らかにすることは出来ても、罪の支配から解放することは出来ないのです。「ところが今や」私たちには律法によらず、神の救いへと至る道を示されています。それはイエス・キリストを信じる者すべてに、神の義が与えられるという信仰による救いの道です。
十戒を、このキリストにある選びと救いから切り離すなら、それは単なる規則や教訓にしかなりません。しかし、キリストの救いの御業を見上て、十戒の言葉を受け取る時に、それは渡し阿智を真の幸福な生き方へと導き、本当に自由にのびやかに生きる道を示してくれる自由への指針となるのです。
Ⅳ:「ところが今や」と語り掛ける主
その自由とは、かつて神を知らず、聖書の戒めを持たなかった頃の私たちが求めていた、あの「自由」とは違います。それは「〇〇してはならない」という命令に縛られてではなく、神の選びと愛に対する応答として、自分の意思で神を愛し、隣人を愛することを選び取る自由なのです。
本物の自由とは、その神の愛に生きることを日々選び取って生きていくことです。十戒はそのような、本物の自由「愛する自由」へと私たちを招く「道しるべ」なのです。
これから十戒に耳を傾ける中で、あるいは日常の中で、自分の罪深さや愚かさを示されて、自分に自分で絶望してしまうことがあるかも知れません。しかしその時に私たちは、そこで「ところが今や」と語り掛けてくださる主の御声を聞くことが出来るのです。