Ⅰ:カナン人女性の願い
今日の箇所は、書かれているお話自体はそれ程難しくはありません。しかし何か読んでいてもすぐに私たちの胸に降りていかない「とげ」のようなものがあるのではないでしょうか。
もちろん私たちは、最後にはイエスが彼女の願いを聞き届けられたということを知っていますが、ではなぜ最初から彼女の聞き届けてやらなかったのか、私たちの心には疑問が残ります。そしてその「なぜ主イエスは母親の願いを聞いてくださらないのか」という私たちの疑問は、そのまま「なぜ神は私の祈りを聞いてくださらないのか」という問いにもなるのです。
今日の箇所で描かれている出来事の舞台は、ティルスとシドンと呼ばれる地方です。そしてこれらの町があったのはフェニキアという「異邦人の土地」でした。しかし、ガリラヤ地方での評判がエルサレムにまで届くほどになっていた主イエスの噂は、この地方にまで届いていたようです。そこでその噂を聞きつけたカナン人の女性が、悪霊に憑りつかれている彼女の娘を救ってもらおうとして、主イエスを訪ねてきた来たのです。
彼女は主イエスを見つけると「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」こう言って娘から悪霊を追い出してくれるように主イエスに願いますが、22節の「叫んだ」という言葉は何度も主イエスに向かって叫び続けたということを意味しています。
Ⅱ:冷たいイエス?
ところがそのような必死の母親の呼び掛けを「無視」されたのです。すると今度は弟子たちが主イエスの側に来て、『「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」』と願いましたが、それに対しても「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました。更になおも食い下がる母親に対して「犬」「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と述べて、あくまで彼女の願いを拒んでおられるのです。
この主イエスの冷たい態度に腹を立てて、このカナン人の母親はその場を立ち去ることも出来たかも知れません。しかし彼女はそれでも主イエスの前に踏みとどまって『「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」』と答えて、あくまで主イエスの憐れみを求め続けたのです。その彼女の答えを聞かれた主イエスはついに、『「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」』とお答えになり、彼女の願いを聞き届けて、娘の病を癒されたのです。
Ⅲ:主との真剣な対話を通して
「あなたの信仰は立派だ」という言葉は、直訳すれば「あなたの信仰は大きい」という言葉です。以前に主イエスは、ご自分に助けを求める弟子たちに対して「信仰の小さい者よ」と言われたことがありますが、しかし今日の箇所では、同じように助けを求めた異邦人の母親を「大きな信仰の持ち主」と認めてくださったのです。なぜ同じように主の助けを求めながら、弟子の信仰は「小さい信仰」と見なされ、一方のカナンの女性は「大きい信仰」であると称賛を受けることが出来たのでしょうか。
そのことを思い巡らすときに、弟子たちの叫びは、目の前の困難に対する恐れと混乱から生じた「悲鳴」のようなものでしたが、それに対してカナンの女性の叫びは、主イエスとの真剣な対話であったと言うことが出来るのではないでしょうか。
「愛する娘を何とかして救いたい」という願いと、しかしその祈りに答えようとしない主イエスの間に交わされた「真剣な対話」を通して、彼女はこの御方が単に自分の思いや利益に基づいて行動しておられるのではなく、父なる神の深いご計画の中で働いておられるという事を理解し、その上でなお異邦人である自分にも与えられる恵みがあるのではないかと問い掛けたのです。
そしてその彼女の真剣な問い掛けが、この時主イエスの心を動かしたのではないでしょうか。
Ⅳ:なぜ神は祈りを聞かれないのか
「なぜ神は祈りを聞いてくださらないのか」
この問いについて、私自身、皆さんが納得することが出来るような答えを持ち合わせていません。それはきっと皆さん一人一人が、苦しみや試練の中で神と真剣に向き合って、真剣な対話を重ねることによって示されていくしかないのではないかと思います。
ただ今日の箇所から言える一つのことは、そのように私たちの祈りが聞かれない時に、神の沈黙に直面する時に、そこで神との本当に真剣で人格的な対話が始まっていくのだということです。
あの使徒パウロも、そして主イエス御自身も、祈りを通しての神と真剣な対話を経て、どこまでも神の御心に従っていく信仰の道へと進んで行ったのです。
今日のカナン人の女性も、パウロや主イエスと同じように、たとえすべての祈りが願い通りに聞き届けてられないとしても、あるいは目の前の苦しみの意味がすべては分からないとしても、それでもなお信仰によって主との真剣な対話を続けて、その苦しみを乗り越えていった信仰者の一人なのです。そしてこの女性が与えられた本当の救いは、娘が癒されたということにあるのではなく、彼女がキリストを信じる信仰を与えられ、その信仰がキリストに受け入れられたことにあるのです。
「なぜ神は祈りを聞いてくださらないのか」その問いの理由は分からなくても、私たちの幸福もまた、私たちの祈りが聞き届けられるということにあるのではないということを今日のこの、ユダヤ人と異邦人の壁を乗り越えて主イエスの賞賛を受け取ることの出来た一人の女性の信仰に教えられたいと願います。
そして神から遠く離れ、神の救いにあずかる権利や資格など何も持たない私が、今確かに主イエスと出会い、この御方を主と呼び、ダビデの子と呼ぶ信仰を与えられているということ、そしてその私たちの本当に小さな信仰を受けとめてくださるということ、そこにこそ、私たち信仰者の幸福と喜びがあるということを覚えたいと思うのです。