Ⅰ:口から出るものは人を汚さない
この時、主イエスのもとを訪れた律法学者やファリサイ派は、エルサレムにいる宗教的指導者たちが、ガリラヤ地方で評判になっているナザレのイエスという人物がどのような人物なのかを確かめさせるために送った調査団でした。そこで彼らは、主イエスの弟子たちが「食事の前に手を洗う」というユダヤ人の習慣を守ろうとしないのを目にして「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。」と主イエスに問い質したのです。しかし主イエスはその彼らの質問に対して、正面からは何もお答えにならず、最終的には彼らに「偽善者」という厳しい言葉を投げかけて、両者の会談は決裂したのです。
そこで改めて主イエスは群衆をご自分のもとに呼び寄せて口から入る物は、やがて消化されてトイレに捨てられることになるだけで、食べ物それ自体が人を汚すのではないし、ましてや食事の前に手を洗わないからといって汚されるということはないと答えておられます。一方で主イエスは「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」とも語っておられます。19節では「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」といった具体的な罪が取り上げられていますが、これらは十戒の後半の「隣人愛」の戒めと対応しています。つまり、そういう十戒の「隣人愛」の教えに背く罪が、そしてその罪を生み出す心が人を汚すのです。
Ⅱ:盲人の道案内をする盲人
すると今度は弟子たちが近づいて来て、『「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」』と尋ねました。それに対して主イエスは『「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。(だから彼らのことは)そのままにしておきなさい。』とお答えになりました。
続けて律法学者やファリサイ派の人々について『彼らは盲人の道案内をする盲人だ。』と述べて、彼らが、自分たちが神の心に背いて律法の戒めを無にするだけでなく、人々にもそうするように教えていることを厳しく非難しておられます。この後の23章で、主イエスはもう一度、この律法学者やファリサイ派の人々を「偽善者」「ものの見えない案内人」と呼んで非難しておられますが、そこでも主イエスは、律法学者たちを「偽善者」「ものの見えない案内人」と呼んで非難しておられます。彼らは、律法の掟を知らなかった訳でも、律法を守ることに不真面目であった訳でもありません。むしろ彼らは、旧約聖書の何倍もあるような「自分たちの言い伝え」を作り出すほど律法を研究し守ることに熱心でした。
しかし彼らは、律法に込められた「隣人を愛せよ」という神の心を理解せず、むしろ自分たちの基準に達しない人を「罪人」として非難したのですが、それは律法の「隣人愛」の精神とは正反対のものでした。
その彼らの考えの前提にあるのは、神の民イスラエルの血を引く自分たちはそもそも「清い存在」であるという自己認識です。そしてそういう「自分たちはきよい」という思いは、その自分たちと同じ基準に達していない主イエスの弟子たちや群衆、異邦人を見下し、断罪することへと至らせるのです。
Ⅲ:ペトロの回心
今日の箇所で主イエスから「あなたもまだ悟らないのか」と嘆かれたペトロは、やがて主イエスが十字架から復活された後、エルサレム教会の指導者となった時、一つの不思議な幻を見ました。天が開いて、大きな布が四隅をつるされて下りて来ると。その中にはユダヤ人が食べることを禁じられていた獣や地を這うもの、空の鳥が入っていました。すると天からペトロに「身を起こし、屠って食べなさい」と言う声が聞こえたのです。しかしペトロは、その天からの声を一度は拒みます。つまり今日の主イエスの言葉を聞いた後も、ペトロはユダヤ人の食物規定を固く守り続けていたのです。すると、再び天から「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と命じられたのです。
ここでペトロに示された獣や鳥たちは、ユダヤ人たちから律法を持たない異教の民として忌み嫌われていた「異邦人」の象徴です。そこでこの幻を通してペトロは、『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。』と述べたのです。律法に込められた神の心を知らなかった「盲人」のペトロを、しかしキリストの言葉が養い続け、ついには「隣人を愛しなさい」という神の心を知り、その神の心に生きる者へと変えられていったのです。
Ⅳ:暗闇も恐れない
私たちの耳にも「あなたは信仰者らしくない」という「律法学者」や「ファリサイ派」の声が聞こえてきます。あるいは「もっと真面目に礼拝に出て、聖書を読んで、お祈りをして、そしてもっと誰かのために奉仕をしなければあなたは救われない」そういう自分自身の心の声が聞こえてきます。しかし私たちは、そういう「盲人の道案内をする盲人」の声に耳を傾けてはならないのです。
確かにかつての私たちは、神の言葉を聞いても悟らない「群衆」の一人であり、目の見えない「盲人」であり、神とは無関係の「木」であったかも知れません。しかし今やその私たちを、キリストご自身が「聞いて悟る者」へと変えてくださり、盲人の目を開いてくださったのです。
「神が植えた木」ではなかった私たちを、神のものとして新しく植え直してくださったのです。そして「隣人を愛しなさい」という神の心を知らなかった私たちを、神の心を知る者としてくださり、その神の心に生きる者としてくださったのです。私たちはこの救いの知らせ、キリストが命を賭して、私たち一人一人を聖くしてくださったという「福音の言葉」にこそ耳を傾けるべきです。
キリストこそ、私たちを本当の命と喜びへと至らせることが出来る真の道案内です。このお方がいつも私たちと共にいて、暗闇でも手を引いて導いてくださるのですから、私たちはたとえ暗闇にいるとしても恐れる必要はありません。ただこの主の御言葉に聞き続け、キリストの手を取って、共に歩き続けていけば良いのです。